FFX歌舞伎に歌舞伎を感じてみるなど

最終更新日

FFX歌舞伎を見ました。

芝居の印象などはほかでも書きました。
見つけてくれている人もいるかもしれません。
ここではちょっと違うことを書いていきたい。
…そうですね、ここに歌舞伎のこんなものを思い出した…というような話になると思います。(あ、最初に書いておくと、このエントリはすごーく長いです。休み休み読んでください。 ごたくはいいから本題へとぶ)

まえがき

何年も心に残る、もう一度見たい作品はそんなにない。10年に1回くらい現れるそれの候補。
実際4日行って、我が人生の新記録かタイ記録でしたのでほぼ確定かなあ。
あと、なんだ私、松也見たかったんか、と気付かされた。去年全然(1回しか)普通の歌舞伎出なかったんで、いつ出るのかと待ってたら、過剰だ、過剰。
(というわけだからシーモア多めになるかもしれん。悪しからずご了承ください。)

今回はカーテンコール後の写真撮影、SNS UPが許されたこともあり、お弟子さん達も含めTwitterが大変賑やかでした。
そこでFF10を20年前にがっつりプレイした、歌舞伎は初体験という人たちの140字×数ツイートを読むと、判で押したように同じことが書いてあるんですよ。驚くくらいに。
キャラクターの再現性、とくにこの人がまんま。あれもこれも拾ってくれて嬉しい。女形すごい。後半の歌舞伎凄い。あれが出ると思わなかった。和楽器アレンジのサントラが欲しい。などなどなど。
短くまとめるとそうなっちゃうんだろう。そのくらい既プレイ初歌舞伎の人への共鳴の仕方が同じってことなんでしょね。
FF10はそんなにも同時代の体験であり、同時にその人達にとってそんなにも歌舞伎は遠かった、ということだわな。
両方とも体験していますという人ももちろんいますが、圧倒的に歌舞伎初めて民のほうを目にします。

そして、ゲーム勢の考察はだいぶ出てきた、そろそろ歌舞伎勢からの考察はどうか? …と促すツイートがありました。
うーん、それがなかなかむずいです。

歌舞伎の方はそれと分かる元ネタを入れ込んだと言うよりは、やり方として使えそうなものを使って歌舞伎にしているというか。
ナウシカのときよりも、既存の歌舞伎の記号に置き換えてないように思いました。
“アレだよねー”、”あー、自分も気づいたー”、と語りたくなるような部分がある新作演目もあるんだけどこんどのはちょっと違う。
じゃあ歌舞伎っぽくないの?っていうと、そうでもなく。
私は最初から、普通にかぶきじゃない?って見てたんですよ。
さらさら会話していて、いいところだけ七五調や歌舞伎めいた様子になるとか、普段の世話もの自体がそうよね。
その”普通に歌舞伎”なのを説明するのは難しい。
既存の歌舞伎作品からのわかりやすい引用で構成された劇よりも、歌舞伎にしようとした結果こうなりましたの説明のほうがむずい。
それは作り手が語ってくれるところのような気がする。

今回、普段歌舞伎を見ている人たちは、多かれ少なかれ、歌舞伎ってなんだろう…という問いをみずからにされたのではないかと思います。私も、別のブログにその辺を書きました。
どれが自分の好みか、くらいは言えるけど、なにが歌舞伎かをあらかじめ線引いておくことはできないな、というのが今の結論。逃げっぽいねw

また初めてご覧になった方が、これは歌舞伎ではいつもそうなのか?といった疑問を結構もたれるようです。

『歌舞伎も年中見ていると慣れっこになってしまって、わかりきっている筈の事で問われて答えられぬことがある。(略)しばしば外国人が初めて歌舞伎を見て批評した言葉に教えられる場合があるのは、歌舞伎なぞは、全くのエトランゼ(異邦人)として見る事によって、別な発見があるという意味でもある。』
(昭和24年 戸板康二「続わが歌舞伎」まえがきより引用)
(仮名遣いは現代仮名遣い、新字に直しています。)

このブログを書くにあたり、先人の知恵を借りようと手持ちの古本を引っ張り出したところ、上のようなことがかかれていました。

まさに今回のFFX歌舞伎で、初観劇の人の意見を見ながら実感したところです。
歌舞伎知らんでも好きに見たらいいと思うし、知ってても好きに見てそれでいいと思うんだ。

ですが、二十年前に自分が書き残したものを読んで、ああ、あのときそうだったんだっけ?なんて思い出すこともあり、メモとしてはなにか書いておいてもいいかなと思って。
(人間ねえ、10年くらいは覚えてるけど30年くらいたつとわすれっからね。)せっかくだから、何が歌舞伎かという問いは棚に上げて、この芝居で歌舞伎を感じたことを覚えている限りあげてみます。
円盤が出たら、あれもちがった、これも覚えちがってたってなるかもしれんけどねw
(と、書いていたら千穐楽の日から配信があるそうだ。おっと。)
あまりにも中味に触れてないと思われるでしょうが、ストーリーやお芝居に何も思わなかったということでは決してございません。それはそれこれはこれ。
あと、ゲームについては知識まっさらである。

以下、思いついたとこから。順不同にて。

 

『新作歌舞伎 ファイナルファンタジーX』
IHIステージアラウンド東京
初日 2023.3.4 千穐楽 2024.4.12
企画/構成:尾上菊之助
脚本:八津弘幸、補綴:今井豊茂、演出:金谷かほり 尾上菊之助
公式サイト https://ff10-kabuki.com/cast/
ティーダ/菊之助、ユウナ/米吉、アーロン/獅童、シーモア/松也、ルールー/梅枝、キマリ/彦三郎、ルッツ・23代目オオアカ屋/萬太郎、ワッカ/橋之助、ティーダ(幼少期)・祈り子/丑之助、リュック/吉太朗、ユウナレスカ/芝のぶ、ブラスカ/錦之助、ジェクト/彌十郎、シド/歌六
ほか、召喚獣の皆さん、グアド精鋭部隊の皆さん、ザナルカンドの皆さんなどなど

タイムテーブルを書いておこう

前編 11:30開場 12:00開演
後編 17:00開場 17:30開演
◇前編 上演時間:3時間35分
第一幕<55分>
 休憩<20分>
第二幕・第三幕<75分>
 休憩<20分>
第四幕<45分>
◇後編 上演時間:3時間25分
第五幕<55分>
 休憩<25分>
第六幕・第七幕・第八幕<125分>

価格を書いておこう

通し
SS席 32,000円 非売品オリジナルCGビジュアルアクリルスタンド付
S席 28,000円 非売品オリジナルCGビジュアル公演ポスター付
A席 24,000円
B席 19,800円

前編のみ・後編のみ
SS席 18,000円 / SS席・見切れ 16,000円
S席 16,000円 / S席・見切れ 14,000円
A席 14,000円
B席 11,000
以上、公式サイトより。(2023/4/11閲覧)

SS席18千円はちょうど歌舞伎座一等席の値段なんですよ。歌舞伎半日と前編または後編が時間的に同等と思えば一等で昼夜見てるひとはこの値段で来ると思う。
これが安いとは思いません。歌舞伎は高いもんだと思っています。高い理由は色々あろう。出すよ。
だが、気軽に他人を誘える値段じゃないな。
なので、あれだけの人を会場に連れてきたこの舞台は、ほんとによくやったと思う。そして何がそうさせたか不思議。
いいものを作れば人が必ず来るなんてこと決してないんだもの。

着到《ちゃくとう》

開演30分前を知らせる御囃子です。”着到”で検索すれば色々解説が出てくると思います。
FFX歌舞伎の開場は開演30分前となっていましたが、私が見たときは、45分前に劇場の建物内へ誘導、ロビーから客席扉前までお客さんを通し、30分前に客席扉を開いていました。太鼓が数音鳴ったところで係の人が客席扉を開いて、客が入場。この扉の絶妙なタイミング。オープンのセレモニー感。
最初に聴いた時は、え、ステアラで着到は予想してなかったー、と、がぜん気分が上がりました。
少し緊張感のある演奏。
歌舞伎座だと今は30分より前に扉は開いてるから、席座ってから、あれ?着到だ。そっか。今日は早く着いたなあみたいな感じです。でもやっぱお囃子が始まると同時に扉が開くのは断然楽しいよ。
それが終わると、普通の歌舞伎では無音ですが、FFX歌舞伎ではBGM(「シパーフ乗るぅ?」)が流れていました。
着到を聴けるのは早くきた人特権ですね。昼の部も夜の部もありましたので、通し観劇の方は、後編の開場で聞かれた場合も多いのでは?

あ、そういえば、開幕前に場内アナウンスで、スクリーン(という名の湾曲した壁)に大きく映った今回描き下ろしのイメージイラストの紹介をしていましたね。是非記念に撮影してくださいと。あれは親切ですね。開演前の様子を撮っていいのかだめなのかは催しによって違い迷うところですから。

歌舞伎座などですと開幕前とか幕間(まくあい)で緞帳(どんちょう)の紹介があります。緞帳は殆どの場合使いません。でもありったけの緞帳を入れ替えながら作者と提供、調製を紹介する。しかし緞帳は休み時間が終わると上がってしまい、実際の芝居で使う幕は引き幕です。あのー、お茶漬け海苔の袋みたいな柄の幕(伝わって欲しい)の端を人間が持って左の端っこから右に向かって横に開けていくですよ。その辺はステアラではなかった所なので(幕がないからな)他の劇場に行ったら初体験できるポイントかも。
そういう意味では、真ん中から左右に幕が開いていく歌舞伎は珍しいと思うよ。

口上

「とざいとーざーい」(以下略)というやつです
(ざっくり説明はこのへんどうぞ。
 かぶきにゃんたろう 第34回「とざいと~ざい!だにゃ?!」
 https://www.kabukinyantaro.com/column/753/ )

口上はごく稀というわけではないがいつもあるものでもないです。
襲名披露などのご挨拶の場合と
演目や配役の紹介とがよくあるもの
後者は、歌舞伎十八番の一部や忠臣蔵のときで、古風なやり方での上演に想いを馳せることができます。
今回は23代目オオアカ屋という、物語と我々の間に立つ人物がでてきて、手振りで拍手を煽った後、床…スクリーン前の通路に座って、扇子を前に置き、口上風のお話を始める。
出てくる前には「オオアカ屋!オオアカ屋よろしく」の大向こう風のかけ声が入り、歌舞伎オリジナルのオオアカ屋の長唄が流れます。夜は少し長いバージョンで踊っていたような。ここも音盤に入れて欲しいです。是非。♪よろず商う人気者ー。
あ、萬太郎さんの屋号は萬屋(よろずや)です。ぴったりやな。

口上は、高うはござりまするがと始まるのがよくありますが、
今回物理位置的に間違いなくオオアカ屋のいる所がいちばん下だからか、たこうござりますはナシ。

オオアカ屋さんは元々ゲームの人物ですが、ゲームの作り手の方と菊之助さんの対談で、この口上のためにいたんじゃないかって言われてましたね。
しかしこの人はただシャレでご挨拶に出てきたのではなくて歌舞伎のみかたの説明者も兼ねています。(歌舞伎鑑賞教室でお芝居の前に「歌舞伎のみかた」なる解説パートがあります。役者さんが説明しますが、ひとにより内容は違います。オオアカ屋の萬太郎さんはこれを何回もこなしている経験者。)
歌舞伎初めての人、FFをやったことがない人に挙手させると、まあまあ半々くらいですかね。
で、走る、何かを投げる、投げられる、見得をするといったときに、ツケの音でそれが強調されるんだよー、という話をして実演してくれる。(※彦三郎さんが書いてましたが、見得はするもの。役者さんがトークの中で「きる」と言ってくれるのは多分、話の腰を折らないように相手に合わせてくれているのだと思う。)

(どうでもいいですが、ツケ、ばたばたばたばーったりって、聞こえます?
音を口で言い表すときの表現は決まっていて、同じことを伝えるための共通語なのでみんなこう言う。
でも、ばたばたかなあ?って思い続けてはやいくとせ。)

そんで、”緊張している”客席全員で笑顔の練習ならぬ見得の練習までします。これは気恥ずかしいところですが、オオアカ屋に言われるとちょっと抵抗感が薄れる。見得をしたことのあるひとはきっと少ない。全員が同じスタートラインになります。(ここ、歌舞伎役者で観に来てたひとはどうしてたのかな。ちょっと見たいよね。)
上を見て、右斜め後方を見て、正面に戻す。
そして、このように見得が決まったら拍手をしてね。見得、ツケ、拍手で全体が一体になるのだ、と説明するオオアカ屋さん。

最近始まったNHKの芸能きわみ堂のWEBで尾上右近さんが同様のことを仰ってます。
https://youtu.be/tXsg4TBpGP4

あと、先に引用した「続わが歌舞伎」にも
『観客席というものが、舞台の上の演劇のために働きかける要素は想像以上に多いのであり、同時に、世界のあらゆる演劇にもまして、歌舞伎は、「客」を気にするのである。したがって、舞台と観客席の交流が、つねに歌舞伎の生命だった。』(昭和24年 戸板康二「続わが歌舞伎」まえがきより引用)

さて、こうしてお客さんを場の当事者にすることに成功すると、さらに今回の演目の成り立ちや作品世界の説明があって(だんだん講談調になっていくオオアカ屋)口上の締め
「おんねがいあげたてまつります」
の後で本編のオープニングに入っていきます。
ザナルカンドにてが流れて映像が出る。ここで既にじわっと込み上げるものを感じた人がいると思う。きっと。

菊之助さんの国立劇場の芝居で、ひとでなくて映像とナレーションで作品の説明をしている回がいくつかあったのですが、それはそれで効果があるけれど、同じことを人が出てきて説明して舞台に引き込んでいく、という過程に一層の魅力があると感じました。
また、これはダメと禁止表現にしないのはうまいですね。前のめりはご遠慮ください、とは言わない。長い観劇なので座席に深く腰掛け背のクッションに身体を預けてゆるりと観劇しろという。してほしいことを伝えるヒーローショーのおねえさんみたいだね。

オオアカ屋さんが背負っているのは脚がついている笈(おい)ですがこの形はオオアカ屋用スペシャルなんだろうか。
勧進帳で義経が背負っているのは経本を上に載せられる上面が平らなものです。お坊さんの一行ですからね。
外郎売のは脚のない箱です。
世の中には上面が湾曲した笈もあるようですが、オオアカ屋のはやっぱランドセルっぽ…
ゲームではリュックサックなんですね。
こういうカツラだと普通は少年(大人の髪型は前髪部分がないのて)なので、すごく弁がたつ小学生みたい。

正面に向かう

ティーダの登場の際、サポーターのみなさんが客席後方に向けてティーダ!と呼びかけますが、ティーダはそちら(客席後方)ではなくステージ上から現れます。
歌舞伎では向かい合う人々も、全員客席側向きになることが多いです。(例えばお白洲で一段高いところにいる奉行と、向かい合うはずの裁かれる側の人が、両方客席を見ている。)
ティーダはなぜか反対側から出てきたわけではなく、客席後方イコール舞台奥ということでしょう。

一方シーモアぶっ返り直前のところや、ユウナレスカと対峙するところは、取り囲んでいる状態です。
これは、もうはっきり対立する形にして、目立つべき人だけこっち向きになっとけということですかね。

通路を使う

歌舞伎の出る大きな劇場では花道が下手(舞台向かって左手)にあります。
もう一本花道を使う演目もあり、その場合は上手にも花道が仮設されます。これで両花道。

FFX歌舞伎では、最初ブリッツを応援する人たちが、上手下手、計2本の通路に出てきます。このサポーターズの出は客席通路を使った一体感という感じがしました。
シーモア杯でのブリッツの選手の入場も通路を使いますが、これは2本平行に並んだ花道の双方に役者が並んでいるような印象がありました。対立する両チーム(ルカ・ゴワーズ、ビサイド・オーラカ)が向かい合うのは御所五郎蔵のような趣向だなと思います。

割台詞(渡り台詞)

ずらっと並んで順ぐりに渡り台詞(割台詞)というのはよくあります。両花道の場合は上手と下手で別々に台詞を言っていくという場合もあります。

今回は、台詞の掛け合いが通路ではなく舞台に移動してからありました。
掛け合いを複数人に割っている形です。
対立している集団が左右に並び、
ルカ1の台詞、対するビサイド1の台詞、ルカ2、ビサイド2…と順々に七五調(厳密に七五ではないですが)で憎まれ口を叩き合うという状況。

最後のキャプテン同士での応酬の”なにを”のあたりは決まり文句で、普通もう少しスローになって、キッと見合ったりしますが、ここはスピード感を持ってということでしょうか、すらすらと流してました。

ほかにもユウナ達が反逆者となったことを順繰りに語る兵達は、
屋敷の警護をしている人などが次の場面を隠している幕の前に並び、事態の説明を兼ねて順に噂を語っていく台詞のイメージです。

話しかた

FFX歌舞伎の町の人々は世話物に出てくる町の人の話し方
シドははっきり歌舞伎。
ほかの主要人物は名乗りや敢えて歌舞伎なところだけ歌舞伎で、あとはゲームがこんな感じなんだろなーと思いました。
シーモアのですます調などはだいぶ歌舞伎から遠い。わざと緩急高低を抑えているようです。ですがドラマなどの口調のリアリズムではなく舞台的な発声・台詞回しで、歌舞伎っぽいと感じられた人がいたならそういうことかな。自分にはアニメか、特撮のように聞こえました。最期(1回目)の所は、うわぁ悪の大幹部だわと思ってました。

名乗り

待ってました

ティーダにかかる「まってました」の声。
それに対して「まっていたとはありがてえ」と返すティーダ。
誰もが気づくポイントで歌舞伎だよーと印象付けます。
このやりとりがあるのは「お祭り」という演目で、待っていた事情が実際にあるときだとよりぐっときます。
(2023年4月ちょうど明治座でお祭りが出ております)

また、”俺がことだ”の名乗りは弁天小僧だけではありませんが、
なにしろやるのが菊之助なのでそこは普通に弁天小僧を想起しますね。

優曇華の花

長い時間待ってやっと巡り合わせたこの機会、この対面を示唆するアーロンの名乗り。
おや?ちょうど5月に曽我の対面が歌舞伎座で…。

誰に説明してるのだ

FFX歌舞伎では、主要人物の初登場時に、七五調で自己紹介をしていきます。
歌舞伎の登場人物が全員わざわざ名乗るかというと、そんなことはないです。
白浪五人男だって一応物語の中で聞かれたから、あるいは物語の中の人に向かって名乗っている。
けどFFX歌舞伎の人物はその建前をすっ飛ばして客に教えてくれてるフシがあります。能や狂言で”これはどこそこに住まいする誰それでござる”って出てくるやつに近い。だから、キマリむっちゃ喋っとった、ってなるけど、きっと物語の中ではノーカウントなのだぜ。(と、思うことにする)

リュックの名乗りを聞いてるとちょっと特攻野郎AチームのOPを思い出すんだけど…あれも視聴者への自己紹介ですよね。でもそれがあるのは日本語版だけだそうです。

青いけど荒事

キマリの名乗りでは、カーッと喉の奥を鳴らすような声を出します。
(あれを文字ではカッカッカッと表現しますが、カ行ではないですね。ドイツ語でこんな練習をした覚えがあるぞw)
荒事(あらごと)のイメージなんだ、と、ここでわかる。こんなに青いのに。
歌舞伎でこれをやるのはたいてい隈が赤い人です。力がみなぎってるような。あるいは怒ってるか。キマリは無口ながら、内なる心は熱い男ということだろう。

人じゃない奴

以前、富岡恋山開という、羊が出てくる唯一の歌舞伎が復活上演された時がありまして(今調べたら2000年だった)、歌舞伎とは思えない本気度の写実的な羊が出てきたんですよ。人が入って動かすやつ。ずっと上演が絶えていた作品なので、新たに作ったんですな。
忠臣蔵の猪はあの里芋みたいなの(と誰かが言っていた)を変えるわけにいかないじゃないですか、でも新しく作るならなんでもありなんだなとそのとき思い知りました。
ほか、全身タイツのようなやつだとネズミとか犬とかが出てきます。

今回はまさになんでもありで、人間の大きさで良い魔物は作っちゃったんですね。
サハギンとかすごい。(菊之助さんが”こわっ”て言ってたけど、走るとこわい)
コケラさんもキラキラですごい。
全く歌舞伎っぽくないですが、それが出てきたからといって歌舞伎じゃなくなることはないというのが、面白いとこです。
中にふつーにお弟子さんが入ってるのも。

今回は大きい奴は映像ですね。
歌舞伎で大きい生き物の機構だと、蝦蟇がありますが、動きはあまりない。目がぴかーと光って口が開いて煙吐いたりします。
ナウシカではだいぶ大きな虫や巨神兵が出てきていたのでできそうですが、スペース的な問題もあるのかもだし、倒した後どうやって片付けるんだというのも悩ましいな。

変化(へんげ)

召喚獣のもうひとつの表現として、最後に毛を振る変化(へんげ)風のが出てきます。
召喚獣そのものじゃないので、モチーフを探して楽しむ感じ。結構喜ばれていてよかった。毛振りで解決がお決まりになるとつまらないですが、まだ大丈夫かな。
擬人化というと馴染まないので、土蜘蛛の精とか、獅子の精みたいに、召喚獣の精と思うとかっこいい。
祈り子が前シテでバハムートが後シテと思えなくもないな(最後一緒に出ちゃうけど)。
般若隈に近い隈でいちばん普通の(???)化けものっぽい。
ヨウジンボウはカラーリングが沖縄っぽいですね。黄色と赤と紫で、笠を被って。黄色に引きずられてそう見えるだけかな。
イフリートはバレン(裾についてるふさふさ)付きで派手な伊達四天で、戦闘力が高そう。
この衣装は戦場から戦況を知らせに駆け込んでくる人(御注進)とか、妖術使いとか盗賊とかで、臨戦状態。イフリートはさらに中にボタンが付いてる。
この組み合わせは鯉つかみに出てくる志賀之助がいます。大鯉と格闘します。

ユウナレスカの蛇

黒衣大活躍ですね。
数で勝負。人の腕が蛇の頭(の中身)になり、1人が2体担当したりしています。パペットだ。
光沢のある生地で古典では見ない質感です。

藤浪小道具さんのTwitter↓
https://twitter.com/fujinamikodougu/status/1648243662810415106?s=46&t=sr_UA7FNJhTgYnpOHTWemA

ブリッツのところ

ワッカのゴール

しんとして音が止まった中、首を垂れてストップしているワッカ。トンと鳴るとワッカが1コマ動く。
人形にいのちが入っていくような。
何故ここでこれを選んだかは分からずですが、ワッカに300%注目が集まることは間違いない。

ボールの出入り

この芝居ほんと黒衣大活躍。いや、見えません。黒衣見えませんからね。
差し金(黒い棒)の先に付けたボールを操るほかに、役者の背後からボールを渡したり隠したり。光と映像に引き継いで再度現物の出現。歌舞伎の誇る?瞬間移動。いやあ、すごいシュートだー。

実際に投げてパスするところもありますね。
歌舞伎の立ち回りでも、刀を投げてパスする時があり、毎回どきどきする。今日もうまくいったーって拍手するポイントです。

あと戦いの時は棒の両端にボールがついたやつをリュックがワッカに渡して、途中から引き継いだ黒衣がぶん回してたんだけど、遠くから見たらどの程度黒衣が見えないのか確かめたかった。
私には黒衣がんばれ負けるな!状態だった。
いや、見えませんけど。
あのような両端に錘が付いてる棒はゲームでしか見たことないです。双錘は錘の二刀流みたいなやつで両手にクラブを持つものなのでこれとは違う。

「そのシュート、こうやるんですよ」

…の足の動き。
おやこで歌舞伎体操 その4 「じりじり」でバランス力を鍛える!
https://youtu.be/TLKPoLW5DEg
橋吾さん(ヨウジンボウなどでご出演)↑です。

その前の姿勢 箱割り
https://youtu.be/G9cFynXfb3k

ぱっと開脚して立つのはハコワリというかたち。じりじりで足を寄せていくのはにじり寄せるという言い方らしく。
シュート以外にも立役さんが随所でこの動きをしています。
(なお、じりじりしながらの移動には他の動きもあります。練習動画など見てるとなかなか奇妙です。)

バトル

今回は歌舞伎専業ではないアクション俳優さんとの混成チームのようです。時々あります。
とんぼ(他のアクションのジャンルでは背落ちと呼ばれますが、着地後の姿勢が歌舞伎独特)など、歌舞伎でもアクションがありますが、今回はシンのコケラさんやブリッツでのアクロバットなアクションも入っています。
控えているグアド精鋭部隊の方々、あれは、お供の侍たちが蹲踞(そんきょ←お相撲さんみたいな座り方)でずらっと並んでいる風情を感じる
あれを歌舞伎の侍のいでたちにしなかったのが、今回の歌舞伎化における一つの姿勢かもしれません。

んで、立ち回りが遅いという感想を見ましたが、なあに、伝統のわざはもっと遅いだよー。

どんたっぽ(にほんごであそぼ)
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005150396_00000

あとこの辺
歌舞伎の「立廻り」を解説します【歌舞伎ましょう】
https://youtu.be/dE9k81x3-X8

これもわかりやすいです。
歌舞伎の魅力をもっと知ろう!「立廻り」編(イオンモールde歌舞伎)
https://youtu.be/cq0CO6zR32I

やっぱ、いつもは刀だからデカくて重そうな武器をぶんぶんする今回のとは違うな。

いまは、途中から写実に”比較的”近くした立ち回りを取り入れることが多いように思います。

忠臣蔵の十一段目に泉水の立ち回りというのが入ることがあります。討ち入りの一部なので雪の中の立ち回り。池にかかった石橋の上での小林平八郎と竹森喜多八の一対一の立ち合いが見せ場です。写実寄りの内容で、丁々発止の後、双方刀を落とされて拾わせまいと素手のつかみ合いになった挙句、唸り声をあげ、水に落ちたり人によっては雪を投げたり。
10年ほど前に獅童VS松也でもやっています。
今回もそんな2人がいたような。ような。

たたらを踏む

勢い余って片足でおっとっと…ってなるやつ。
横にいくことが多いと思いますが
舞台から客席側に向かってくる時は屋根とか橋とかから落ちそう、のイメージがあります
ちょっとスリリング

百回り

しゃがんで片膝や片足を軸にしてその場でくるくる回るやつ。回るとわーっと拍手が起こるポイント。回るとキタキターってなる。(けど、こうなってるときはやられてるので喜んでる場合ではない)
シーモアとアーロンは時間差で2人とも回ってましたね。
あと召喚獣との戦いでのリュックも。

ぶっ返り

事前に公開された映像にもあった、シーモアの衣装が黒から白に変わるところ。技法はぶっ返り。本性をあらわすときに使います。元の衣装の裏側が別の色(今回は白)になっており、肩から糸を抜くと、上半身の着物が裏返しになり、それが帯の所から下に垂れて、裾を隠します。上半身は中に裏側と同色(白)の着物を着ているので、全身真っ白になる仕組み。今回は鳴神を思わせる炎の柄が入っています。
で、ぶっかえる人はそのまま大暴れしたりしますので、腰から垂れた布をばっさばっさやりながらバトることになりますが、元の服装によっては腰のあたりがもっさりしてしまう。あれはあれで大きさを出す工夫なんでしょうね。シーモアは青い上着を先に脱いでいて、帯の上に載ってないのでぶっ返っても割合すっきりしています。そして返った布が足元まであり黒い衣装の裾がほぼ隠れてしまう長さで、このバランスがカッコよい。右手右足が同じ方向に動く日本的な体捌きで身体を回し裾を捌きながらの立ち回りとなり、ヒラっとする布もその下の黒い裾の重みも、ちらりとする黒の足元もとても良かった。

小忌衣(おみごろも)

ぶっ返る前にシーモアが脱いでしまう上衣ですが、小忌衣のイメージだそうです。歌舞伎の小忌衣は本当の小忌衣とは違う歌舞伎独特の衣装で、首の後ろからおくみにかけて立てた襟みたいな飾りが付いている…これ、エリマキトカゲが知られていない頃はどう説明してたのや…。映画の魔界転生の天草四郎の衣装は肖像にある西洋風の付け襟と小忌衣の融合かなと思ったり。あ、歌舞伎の話ですね。小忌衣で登場するのは並の殿様ではなく、伝説級の人のイメージがあります。四の切の義経とか。馬盥の春永(=信長)とか。後はみかどの御血筋の人。在原業平とか、4月の歌舞伎座の新・陰陽師に出ている興世王とか。

ルールーの水の布

晒しを使った踊り、近江のお兼を思わせます。
ただお兼のは一枚布で、細かいシーモアがいっぱい出る時のひらひらみたいなやつです。
ルールーのはさらに工夫されて、シュレッダーで裁断されたみたいな(←違う)。あのばさばさの新小道具を紹介した番組にツイッターで気づいた人がいらしたけど、埋もれてわかんなくなっちゃった。
もう探せないー。

ミニシーモア?

その、集団「近江のお兼」。シーモアとの最終戦でうじゃうじゃとシーモアっぽい髪型のなにかが複数人出てきます。シーモアさん複製する時に細部をはしょってますね。パッと思い出すのは孫悟空の分身です。あんときは子役集団だったけど。

海老反り

最初のシーモア戦で、公開された映像にもありますが、ルールーが大きく後ろにのけぞってきまります。海老反りです。
リュックも後編終盤の戦いで海老反りをしています。
女性が責められたり殺されたりする際の仕草です。
男の海老反りはないのかな??
狐忠信は反りますが、あれは人じゃないからな。

自撮りb…じゃなく鉄杖

ユウナレスカが持っていた棒。鉄杖(てつじょう)もしくは打ち杖。歌舞伎では鬼とか土蜘蛛の精とか、変化(へんげ)が持っている。
https://twitter.com/fujinamikodougu/status/1580855512845144064
アーロンのユウナレスカ戦では、直接斬りかかろうとしても、ユウナレスカが杖を振り上げると、剣は届かず神通力でダメージを受ける描写。
ベーッと舌を出すユウナレスカ。
もう妖怪退治のたぐいですね。

国立劇場の演目紹介動画 紅葉狩
https://youtu.be/8p1i7ezQAXQ
前半は綺麗な女性(演ずるは梅枝さん)が踊るのですが、6分あたりから様子が変わります。
ぶっかえりもありますし、魔物の表現、長い得物の扱いなど、FFX歌舞伎で使っている技法が垣間見えると思います。

捕まえられる

リュックがシーモアに挑んだ後自分の耳のあたりに手をあげて斜め後方に傾き痛そうな仕草をしています。襟髪を掴まれて取り押さえられる動作です。シーモアが移動すると引きずられる感じになります。髪を結い上げている人でないとなんとなく説得力に欠けるので、ここはリュックなのかな。

メイク

これは、バース・デイ(TV番組)の放送で少し紹介されてました。
シーモアの場合、菊ちゃんと松也くんで向き合って、かつらと額(肌色)が一体になったようなものを被って試しながら
菊「自分の隈取りで眉毛活かした方がいいよね」松「そのほうが自由度上がる気がします」
つまり、かつらと額が一体になったもの(スタートレックのクリンゴンみたい)はボツらしい。
次のカットでは、白塗りになっており
松也さんが筆を持ち、目もとから頬へ一筋を下ろすと、
「青い涙っぽいですね」「怒りと涙になるかなと」といった会話がありました。(メイクの方かな)
このときはセルリアンブルーのような彩度の高い色で、目頭にラメが入っていましたが、実際の舞台では黒と少し彩度の下がった青のメイクでシンプルになっていました。形も少し変えたみたい。
公式の動画でも肌色だと青が映えにくいので白塗りにという話をメイク担当の方がされており、
結果的に伝統的な藍隈を思わせるあの配色になっているわけですが
役柄的にやんごとなき悪なのでぴったりですね。

仮面

シーモアの最終ハイエイトチョコ(違)の後、隈が消えて真人間に戻るとき。上半分の仮面を使っているように見えました。
仮面は菊五郎さんや菊之助さんの芝居でたまに見ます。ほかではどう使っているか知らない。あんまり見ない。
十二夜のときは本人そっくりの仮面を使ってることが公言されてた記憶がある。あと吹き替え(録音の吹き替えじゃなくて、客にはわからないように身代わりをやること)をお弟子さんが演じるときなどに一瞬とかね。遠目だとなんかお化粧変だなー、くらいに見えます。あと、すごい隈取りのあと普通の顔で出るときとか。
今回は上半面で下は本人の顔が見えていたので話している口が見えて、一見わからないですね。

(顔の石膏の型は前年の松也さんの自主公演の際に取り直しており、その型が使えたかも。)

演奏する人たち

後編、オオアカ屋からあらすじの説明の後、ステージの上手端に義太夫の人達の座った床が出てきます。
出てくるっていうかスクリーンが開くので客席から見えるようになるんだけども、突然姿を現すこと自体が歌舞伎っぽくてホーム感あった。
前編ではこの方々存在しなかったじゃないですか。それがこの幕からは義太夫か。了解。

後半のほうでは上の段に義太夫、下の段で長唄。
私、常磐津とか新内とか清元とか各語りの違いは知りません。今回はプログラムに長唄って書いてあるから長唄だろうね、みたいな。後は見台の脚とか、知ってるかたの顔で見分けてます。
プログラムで鳴物(なりもの)と書いてあるのは笛、太鼓、鼓などを演奏する方です。着到もこの方達の演奏です。どっか見えないとこにいらっしゃるのでしょうが、舞台見えないと困るからどうやってるんだろね。モニタかな。

シーモア、死ぬ間際(1回目)

事切れる前にだいぶもがく様子は五段目の定九郎を思いますが、それよりしつこくない?。確かめたわけじゃないが。
往生際が悪いとはこういうことだろうな。

高いところから後ろ向きに落ちるので思い出すのは義経千本桜の知盛です。
死んだはずだが実は生き延びており、一族を滅亡させた恨みを晴らす機会を伺っている。
怨霊に準えた白い衣装で出陣し大奮闘ののち最終的には小さな帝の言葉をきき自ら海に消える。
だいぶ壮絶な役ですが、重なるイメージも少なくないです。
ただ、知盛は自分の意思で生きながらにして落ちますが、シーモアさんはこときれて不動のまま後ろに”仏倒れ”になり、舞台の穴に吸い込まれていきます
(歌舞伎よりGロッソ(戦隊もののショー)を思い出した私はいったい。)
後ろに地面がないので落ちていく時間が感じられ、どこまで堕ちていったのかと思う。
歌舞伎だと義賢最期が仏倒れの代名詞のようになってます。これは前にいきます。階段があるので少し余韻が残る。
地面との距離が近いとばたってなって怖い。斬られた後倒れるのとか。
能は後ろにいくようです。それも怖い。

大義というやつ

歌舞伎の自己犠牲には、自身のなにがしかの申し訳なさを内包していることが多いように思います。何かの理由で主人の勘気をこうむり、奉公ができない状態だったりとか。
それが本来あるべき状態に復したいといった行動原理にも繋がってきます。
そのために個人の事情よりも優先されるパブリックな事情がある。大義というやつ。
これを果たすことで本来の状態に戻れる。
エボンの教えもそういうものかもしれないですね。
自分はキリスト教的価値観はよくわからないですが、お家の重宝のあほらしさと悲しさならわかるよ。
お家の重宝がふんじつなしてるあいだは、若様は若様に戻れないし、家来はずっと宝を探して旅を続け、「おしゅうのためにきりどりなし」たり、うっかり川に落として腹を切ったり…
いつかお家の重宝が見つかれば、御家再興は叶うと信じて、それがために命を落とす者がいる。
はたからみれば、たかが一巻、たかが一振りですよ。ぽーぃしちゃえばいいのに。(シドの振り真似で)

自分が命を投げ出すことで役に立てるという価値観は歌舞伎でも時々見られます。
シーモアの母は、最後の日々を息子とともに信仰の中で過ごしたかったのかもしれないが、一方で自分の内包している負い目を、周りからも賞賛されるべき死でチャラにする目論みもあったのではないかと、私なんぞは意地悪な見方をしてしまう。
この手の犠牲としては、難病を患った人を治す妙薬などとして、人(場合によっては非常に難しい条件の人)の生き血を提供可能なのは自分だと気づき、差し出すために命を絶つ、みたいなケースを思い出します。

子を犠牲にするケースもあります。首実検のある演目です。
本来なら主筋となる子の首を差し出さねばならない。この子はその世界の中では非常に大切な子なんですよ。
だが身代わり首があればその子は無事に済むかもしれない。となったときに、自分の子どもの首がお役に立つと考える。
子どもは納得してにっこり笑って死んでいったとかなんとか。
そして大義を果たした後にやってくる親としての悲しみの吐露に観客は涙する。という図式。

しかしながら、その価値観を善とせず、親の言うとおりににっこり死なないどころか「ゆ る さ ん」になってしまうこどももいるし、
誰かが犠牲になるのをよしとしない異邦人もいる。それが今回ですね。

大悪人、子どもにとらわれる

蘭平物狂という演目があります。いろいろあって貴人に仇為す人物であると分かった主人公。
それを召し捕るために呼び出された新参者は、主人公のせがれであった。これがまあ、あまり大きくない子役なんですよ。親の腕にぶら下がれるサイズじゃないといけないからね。立ち向かってこようとするんだけど、親を縄にかけることはできないと渋ったり、戦う途中でこけたりしてね。そしたら親は大丈夫か、と思わず助け起こしたりしますよね。
ジェクトとティーダの戦いに混じる子ティーダとのやりとりに、そのあたりを思い出しました。

一対多数

ついでなので蘭平をつづけますが
その前の場面の立ち回りが有名です。
一人の主人公を大勢のカラミが追い詰める立ち回り。手を替え品を替えのタテを大量に浴びることができて私は好きです。これに限らず捕り物では追われている主人公が揃いの出で立ちの捕り手を次々蹴散らしながら進んでいくことになります。実のところ1対1とか、3対1等々の短い場面を繰り返していき本当に多対1になるのは最後の最後です。その間主人公は舞台に立ち続けることになります。
FFX歌舞伎のシーモア戦(1回目)は、次から次へと主要人物1対1の立ち回りが連続し、これは古典では珍しい事態ですが、シーモアから見れば1面1面捕り手を蹴散らしていく過程なわけで、次々捕り手が出てくる代わりに、シーモアが歩いて舞台が(実際は客席が)回る。その間ずっと舞台に居続けつつ前進もしているシーモア。この劇場ならではのやり方ですね。

回り舞台の代わりに

アーロンとの戦いの後シーモア退場。
リュックが皆を回復させて、全員で見得。そこで客席が回って次のステージが見えると、もうティーダとシーモアが対峙していて、回転が止まるとアクションスタート。
これは大きな戦いや捕物の最中に回り舞台が回転して、同時に裏では別の対決が行われている。というのをステアラ仕様に置き換えた物でしょう。あー、みたことあーるーという実感が湧き上がる、歌舞伎を感じるポイント。
もし再演があったら、回り舞台の裏からティーダとシーモアが対峙して現れたときに、あーー、ステアラのあれだーと、自分の中に眠っていた記憶が呼び覚まされることになるんじゃないかな、と思っています。
(関係ないですが、アーロン戦でシーモアが手負いになって一旦退場するところ実は毎回”胃が気持ち悪そう”と思っていた。ああいう所、歌舞伎では結構血まみれになっていたりするので胃が痛いの?とは思わない。視覚で状況をとらえている所もあるのだね。)

休憩時間にロビーに行くお客さんの波の中で
「客席が回ってるんだよ」
「でも役者は客席と一緒に動いていたよ?舞台か回ってるんじゃないの?」
といった会話を聞きました。
ご存じのとおり、回るのは客席なんだけども、
客席最前列の前手すりから舞台側スクリーンまでの細いエリアが回廊のようになっており、周囲の舞台だけが回り回廊にいる役者が客席と同じ地面にとどまったように見えることもありました。
と思えば、スクリーンを見ながら話していたオオアカ屋さんが、動く回廊に乗ってフェードアウトしそうになることも。
この通路っぽい輪っかは舞台とも客席とも独立して動く仕掛けなのですかね?
(実際は座席は動いてないのに映像だけが動いて回っているように見えたこともあったので、騙されている可能性もある)

ステアラ以外の、客席じゃない方が回る回り舞台ですと二重回しという、外側内側に二重に盆を切ったものがあります。今はなき新宿コマ劇場は三重だったそう。
もともとなくても仮設で載っけて作る場合もあります。私は歌舞伎で使っているのは見たことがありません。
FFX歌舞伎のような使い方は舞台のほうが大きいから効果的なんだろうな。

シド

1人だけなんの忖度もなくモロに歌舞伎です。
義太夫とともに、こっからは濃い歌舞伎が入ってくるよーと告げる存在。
衣装は上半身は袖なしで中に素網を着ていて、胸に大きな三つのボタン。先に書いたイフリートのような四天のイメージですが、布がキンキラキンじゃなくみんなと同じ柄。
ボタンがある服は歌舞伎では異国情緒の表現でもあります。色んなところを渡り歩いて一族を導いてきたであろうこの人の来歴を思います。
下半身は西洋の鎖帷子の様です。
船長だと思って見てるせいか、ひとりで腕組みしているところ、ポーズは違いますが、汐見の見得を思いだしました

アルベド全体が、袖なしの着物に素網で統一されてるのは、盗賊とか忍者とかになぞらえてるんでしょうかね。でも上着が短いから独特の風情。尻はしょりをした若いもんのイメージもある。全体的に和洋折衷。襟の黒いのは立役ではあまり見ない気がする。町人の女性によくあります。

道行

マカラーニャの森でのティーダとユウナ。
道行だなあ。(男女の連れ立つ様子を踊りで表すのが多い)

道行は大抵イヤホンガイドが要るます…私、滅多に借りないのでいつまで経っても踊りの意味分からず、きれいねーくらいの気分で眺めています
忠臣蔵の芸談集で、六段目でお軽が売られていく最後の別れのときに、勘平役の人が、いちばんきれいだった道行の時のお軽を思い浮かべるようにしていると仰っていて、
自分はマカラーニャの森で舞う二人を見ながらそれを思い出し、これは旅でいちばん美しい思い出になるのだろうなと思いながら見てました。

多すぎる毛振り

最後に現れる個性豊かな隈取(色も珍しい)のもふもふのカシラの召喚獣たち。
振る仕草は左右に振るのを髪洗い、回すのを巴(ともえ)というそうです。こんな多いのは珍しいですよね。
シヴァのような女性の獅子もあまり見たことなくてあら素敵と思いましたが、獅子ものは古い時代では女形の演目であったとのことです。

ブロマイド

今回は二枚で1200円。事前撮りと舞台といずれも各キャラ1人での姿のみでした。
公演後半3/18からの発売。初日が3/4ですから2週間後ですね。
写真1枚600円はまあ普通。
残念なのは舞台写真じゃなくブロマイドだけなんですよね。
やっぱ舞台の様子を写した写真は欲しかったな。
複数人が出るいいシーンあるじゃない。
普通の芝居のようにはいかないのかなあ。
通常の歌舞伎座では月の後半から舞台写真が販売されます。東銀座の地下に掲示されている場所があり、それを見て、ほしい番号を店員さんに伝えて買うしくみです。筋書きにも後半から当月の写真が載ります。
地方での公演の際には当月出ている役者さんの以前の演目の写真が売られていたこともありました。

大海嘯

最初に、ゲームについてはまっさらと書きました。
それでも人間パートはわかりました。あと召喚獣を呼ぶくらいは知ってる。
だが、ミヘンセッションは正直わかりませんでした。
まあ、人間の愚かな行動が災いを呼んでしまう(であろうことを看過してシーモアがわざと黙認している)という大枠は掴める。
ああ、王蟲の仔を使って大海嘯かー。そうだよねー。王蟲を機械で止めるのは無理だよー。(←混ざってる)

混ざってるついでにいうと、全体的には、太古にかけられ世界のあり方を決めている呪いをぶっこわし、ひとが自分の足で立つという話だ。
ユウナレスカはその枠を永年変わらず護るもの。なるほど、庭の主だ。(ナウシカで芝のぶさんがやってた)同じ同じ。神話の時代の終わりだ。
この、類型化して、この役割なら誰と割り当てて、客もそう思って見るという図式もちょっと歌舞伎っぽいのかも。
古典になくても、いまの作品を歌舞伎にしていくうちに類型も増えるのかもしれませんね。

お客様のこと

「続わが歌舞伎」から

『観客層は交替したと先刻いったが、その一例として、歌舞伎を見て酔わなくなったことがあげられる
(略)
芝居の筋は脚本を読まなくても、解説の小冊子で一応分かるが、どういうところが面白いかという点に至っては、これはもう観客自身の感受性によるのであり、その感受性は先天的なものもあるが、また永年の教養が培うものが実は多いので、一朝一夕に体得はできないのである。だから、俳優は別として、見ていてたのしく、おのずから陶酔境へ誘う力を持っているいくつかの演目に於ても、今の観客は容易に酔わないし、中には酔うことが態度としてよくないと持っている人もない訣ではない。
(略)
知っていけないことは決してないが、それ以上に、「関の扉」のような芝居では、見て楽しむことのほうがより一層重要なのであると、僕はいいたいのである
(略)
酒は飲んで酔うことを人に勧められて、さてそれから酔うといったものではない。歌舞伎も、同様に、自分から進んで味得し、鑑賞者のひとりひとりが、自身の「歌舞伎美論」をもつべきものなのだ。
(略)
』(昭和24年 戸板康二「続わが歌舞伎」まえがきより引用)

今回は実際に観に来て酔ってくれた人達がいっぱいいた。嬉しいことです。

家を出て劇場にくることがもう、既に偉い。ジャンルがなんであってもライブのものに出かけるということに第一の壁がある。ナマはこわいという人もいるのです。その上で更に歌舞伎がこわい。未知のものすぎて怖いのかもしれない。だって親が歌舞伎に連れてってくれましたって人はそういないでしょう?いや、少しはいるけど一般的には映画連れてっても歌舞伎は行かないよきっと。それは親だって行ったことがないからさ。すると、自ら一歩を踏み出さねばならない。

逆に通常の歌舞伎なら幾つもの劇場で観て劇評めいたブログを書いてるような人が来てない。ええTwitterには歌舞伎ファンもいたぞ…と思い、音羽屋系の話題のあるブログを探し探しして、ああ、来てる人は来てるって少し安堵。でも棲み分けてるなーって感じ。興味ないということもあるでしょうが、たぶん、見知った世界から外に出るのはそれはそれで怖いんだと思う。

でもそこまできてくれた人が、作品に酔い、お互い何も知らなくてもゼロからスタートでいいという雰囲気になったことはとてもよかった。

同じことは二度とは起こらない。けど10年に一度くらいこういう忘れ得ぬ体験があってほしい。我が人生では、あと、2,3回くらい期待できるかな。

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