彦三郎 いまの団七 (2024.9 新国立劇場中劇場)

最終更新日

新国立劇場中劇場
夏祭浪花鑑

今年の国立劇場(ただし出張)の6月の鑑賞教室は上方の狂言だった。
封印切。上方の役者に混じって、彦三郎が槌屋治右衛門で出ていた
この人だけ江戸から来たようだった
昨年菊之助の髪結新三では弥太五郎源七。
そういう一目置かれる男の役をやるようになってきたのだけど微妙におさまりの悪さがあった。何が違うのかわからないけど違う。
彦三郎が団七との知らせがあった時、それらが頭をよぎった。
しかし開けてみたら、彦三郎は団七をそういう貫目の重い男ではなく、距離の近い”彦三郎の団七”におさめてしまった。
こんな芝居を作る人だったんだね

劇場は新国立劇場の中劇場。
初芝居が掛かった時、やりやすい劇場だとだれかが言っていた。
菊五郎だったような。
客席から見てそうは思えなかった。
花道がない。
どうしても巡業っぽい不自由さはあるように思う。
あの段状の客席では設置は無理だろう等々の意見もあった。
早く新しい国立劇場できてくれよと思うしかなかった。

だが、今回花道ができた。びっくり。
短いけど客席に張り出した花道
これだけで、お正月のときよりぐんと芝居小屋らしくなっていた
花道は客席10列目の地面と同じ高さになっている
途中までは普通に舞台から客席後方を目指して突っ切る方向になり、
10列目の前で下手(しもて)に直角に曲がって揚幕に入る。
出入りする時に幕を上げる様子が見える
定式幕は浮世絵にあるようにたくし上げられて、芝居が始まる前の舞台にはもう道具が置かれている。これは五分前まで撮影可。

その道具の前で片岡亀蔵が解説ののち
一旦幕を閉めてから再び開けて
芝居は住吉鳥居前から始まる

いきなり大工と医者が言い争いを始めている。いやあ、慣れてなさそう。
思えば喧嘩ばっかりの演目である
記念すべき(?)オープニング喧嘩はもう少しどうにかならんかいな
これのせいでエンジンのかかりが悪い芝居になってる
上手ければ面白いのかもしれん

床の衆こと下剃三吉は鷹之資
呼ばれるたびに嫌な顔もせず出てくるとこはサービス業やねえ
でもまだ少し取ってつけたようなとこがある
台詞のある芝居そのものの経験が薄いのかな

三婦は男女蔵。大男に見える。日に焼けて強そう
団七女房お梶に宗之助。宗之助の女形が多いと嬉しい。貴重な紀伊國屋。

解き放たれた団七は、へにょへにょで一段とかっちょわるい
対して、綺麗になって出てきた団七は
声がデカすぎてすっごくやかましい笑
いや、知ってたけど
この劇場は本当に舞台や花道が近いんですわ
爆音ですよ
これが長町裏ではリアルな声になるので
前半はわざと朗々としているのかな

彦三郎団七と坂東亀蔵徳兵衛、座組考えた人えらい
出会いから小競り合いののち兄弟同様になった二人に、そりゃ兄弟だからなって客の7割が突っ込んだと思われる
幸せな突っ込みでよろしい
(例えば歌昇と種之助ではどうだろうというような楽しい妄想も浮かぶ)
こどもを前にした団七のくしゃくしゃな笑顔も良い。キャッチボールが捗りそうな親子だ。オフショットを見ているようなのに、芝居の中から飛び出すようなことはない。舞台の中に団七の実在がある。
(なお長町裏で三十両になる石を弄んでるところももちろんキャッチャーにしか見えない呪いにかかった。といてほしい
追記:両膝をつく形に変えてました。よかった。呪いが解けた。)

困った主筋、磯之丞様に男寅
これは周囲の様子が変わっても全く意に介していない、世界が違う人だ。自覚がないタイプ。この味わいはなかなかないな
恋人琴浦は玉太郎。立ち姿が堅い堅い。
この辺りでまたかかりかけたエンジンが停滞してしまう。
この後、三婦内での2人のじゃらじゃらしたやりとりは割とそれっぽくていい

お地蔵さん…じゃない佐賀右衛門は松之助
これはもう鉄板
道案内の時、団七が、まっつぐと言っていた。江戸っ子だねえ、浪花だけど(笑)

女房おつぎはお馴染み歌女之丞
お辰は孝太郎
落ち着いた風情のうちに秘めた強さ
ここでござんすの笑顔がチャーミング
お辰とおつぎの女子の井戸端外交が世話でいいな

最初の駕籠かきは、左升、蔦之助(つーたんの脚が反ってて独特)
後の駕籠かきは、まつ虫、左次郎。いい釣り合いだぁ。

長町裏
忠臣蔵は、武家の物語だからか、江戸では様式美が磨かれ、上方では武士の情け無いリアルさがあるけれど、夏祭は逆かもしれない
春に見た愛之助の団七では、動きの元の意味がわからないくらい美しく様式化され、だんじり囃子の思い切った緩と急にのせ、いつ抜けられるかわからない引き伸ばされた時空から、喧騒に紛れ、悔やみきれないものが噴出したかのように駆け抜けていく、まるでフィルムを見ているような幕切れだった

今回はあっという間だ。

片岡亀蔵の義平次は扱いづらい身内だが、まだこちらと同じ次元にいそうな部分がある。だから団七があんなに謝って交渉しようとするんじゃないかしら。ころしてよいならそこまではしないという言葉の説得力。

しかしあっさり過失は起きてしまう
殺しの局面では、見得の連続というより、必要な動作の途中途中が見得になっているのが分かる。話に聞いていた(読んでいた)沼の中を見やって舅を探す所作等はこれかと。
左右にあたりを伺う際に響く三つずつの太鼓のテンポも倍速に思え、祭囃子は速いまま、囃子が近づく焦燥感のリアルがある。
(因みにかけ声はチョーサヤだった。祭囃子のリズムは均等。ワッショイじゃないけどだんじりでもない)
(追記:22日。ころしきるまでは非常にゆっくりな合方で祭の音はない。掛け声もなし。太鼓で団七が辺りに気づいた後で祭の声が入る。(だからあの印象的な、ちょーさや(ダンダンダン)にはならず、ドンタッポから三ツ太鼓になり追い詰められていく弁天小僧の立ち回りの構成に似ているかも。)
月前半で見たときは、脛の泥を落とし切るくらいまで綺麗にしていた。月半・後半で見たときは、脚の泥に執着せず。刀は念入りに。頭からざばっといかない代わり、肩口から水をかぶるのは2回。)

脚の泥も充分に拭いきらないまま、祭りの囃子にひらひらと手をかざしながら焦点の合わない目で花道に出て揚幕へ消えていく。まだどこかへ向かう意思までわからない。この花道ではそこまで描ける長さがない。あのままふらふらと祭りに紛れてどこまで行っただろう

そんな、いましか存在しない団七を、見た。

2024.9 junjun

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