昭和を思う顔見世月(2025年11月に見たもの 歌舞伎座、巡業、エリザ)

顔見世でかかっている芋洗い勧進帳の二代目松緑による復活がS43年
鳥獣戯画絵巻の国立劇場初演がS45年
巡業でかかっている泥棒と殿様の初演もS43年
又五郎丈が名子役として名を馳せていた頃と伝え聞いています

今までのプログラムでもきっとそんな偶然はあったんでしょうが、
ひときわ”高度成長期”っぽい鳥獣戯画があったことで、あれ?これもこれもじゃん?って見えてきて、何か訴えかけてくるような気がするのだ(気のせい)。

昭和元禄と言われたそうですが
戦争が終わってからの年数を数えれば
昭和の四十年代は、大坂の陣から元禄ほどには戦争から離れておらず、たった二十何年か前だったのですから、
いくさのこと、かつえる(飢える)こと、一から立て直すこと、と二重写しになるものはあったのかもしれません。
まあ、そのバックボーンのない自分はそういった文脈抜きで兎や狐の可愛さを愛で、苦悩の若殿をいとおしんでおります。
いずれの演目も濃い墨跡のような強さがあるように思います。

歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎

歌舞伎座は曽我ものがあったり幕切れが富士山だったり朝日だったりと結構正月の雰囲気を出してます。
顔見世は芝居国の正月とはいってもそんなにめでたい演目が並んだ記憶はないので急にどうした?って感じ。
福之助が入院中(心配)のため代役をやっていることもあって橋之助が昼夜とも活躍で、どれもいい役で頑張ってるなー注目株だなと思っていたら婚約会見がありました
充実って芝居に現れるのかも。

歌舞伎座昼

御摂勧進帳

松也くん曰く「どうかしてる演目」こと御摂勧進帳
これで「ごひいきかんじんちょう」と読みますが、漢字変換で出ないので、毎回「摂津」と打って津を消してます。
これ摂取の摂だよね。
ひいきとは摂ること、というのには、なんだか納得。

前半は勧進帳の図式なので次になにがくるかわかってて安心(…安心?)
歌舞伎十八番の勧進帳よりは言葉もわかるし眠くない。色も派手派手。
我々には十八番のパロディに見えますが、元はこちらの方が古いので、親が同じ別物みたいな感じでしょうか。

身分を隠してるのに着物の柄がキンキラ笹竜胆で源氏ばればれな義経は新悟。背の高い義経、新鮮。しっかりしてそう。
玉太郎、男寅は四天王常連になりそうな気配。
男寅の鷲尾三郎は4人の中ではリーダー格のようで頼もしく見えて似合っています。
歌之助はいつも早口ですが、先日別の一門の方が”産み字”(伸ばす母音)を入れることを意識するという話をしていて、歌之助にはそれがあまりないのかもと思いました。
常陸坊は松江。ここも世代が変わったのを感じますね。
今回四人ですけど、前に三津五郎がやった時の録画を見たら家来六人いました。その増減ありなんや。

迎える富樫が橋之助。これがキリッとかっこいい。
同役(副)の斎藤次祐家に市蔵。
いつもの勧進帳では昨日も山伏を斬ったと言ってるけど、この芝居では山伏は全然来ないと言ってて、やっと来たそれなりの人数の山伏なのですっごく怪しいってことなんでしょうね。関所の側はおそらく全員がこれは義経一行だと推量していて、通すかどうかが分かれる
富樫は同役の斎藤次に最初から牽制されてるんで、普段から源氏贔屓の気配がするのかもしれませんが、鎌倉に詮議を任せるのを拒否して、見逃すばかりか切手まで与える大盤振る舞い。やりすぎでは。
一方、斎藤次は自分の裁量で弁慶らしき大入道だけを捕える。
これも面白いのね。
この目立つのを見逃せば同罪やもんな。
バランスの取り方が日本的。

巳之助の弁慶は、揚幕の向こうから声がした時から声が三津五郎そっくり。
鬘が爆発してるタイプ。衣裳も異国帰りの人が着るつぶつぶのついたやつで強そう。
立ち回りをしながら勧進帳を読み上げるときに、弁慶の向きが変わるので何も書いてない様子が客席にも見える親切設計。
こういう動きも二代目松緑が付けたのでしょうかね。
みっくんは無双の活躍から一転、嘘泣きの風情もかわいくていいし、正体を現すときの不気味さをはらんだ声も本領発揮な感じです。

その先は、まー、アホですねー
ちぎっては投げ、ちぎっては投げってこういうことね
胸に弁って書いてあるし、スーパーマンみたいだな

ちぎられた首のお掃除で、MLBやクマなど時事ネタあり
後半日程では、大谷さんと橋之助おめでとうネタになってました。

最後の芋洗いについては、「吉例により芋洗いをご覧にいれまあす」と古めかしい荒事の様式で述べてから、巨大天水桶を二本棒でごそごそし始めますが、首がぽいぽい飛び出てきて、どの辺が吉例なのか問い詰めたいw
桶を持った家来達が富士の形を作って幕切れです
お正月だなあ(まだだよ)

道行雪故郷 新口村

忠兵衛/扇雀、梅川/雀右衛門、万才鶴太夫/錦之助
清元の舞踊。冥途の飛脚の封印切の後の話。雪の中、新口村に辿り着き父親の姿を見つけて何か起こるかな?起こるかな?って思ってるうちに終わる。歌詞にもありますが道が捗らずに観るのがつらくなってきたあたりで、才蔵にはぐれた万才の太夫の踊りが入るのに癒されます。これは元々なくて、令和に追加されたものだそう。(と国惠太夫が書いてくれてた。っていうか私それ見てるはず。我當さんが歌舞伎座に来た月だもの。梅川は秀太郎さんだったのね。)
今月、延壽大夫のInstagramのリールでその時の話に触れられていました。
少し気分が変わります。歌舞伎座のような大きな舞台の時はあるとよいかも。

鳥獣戯画絵巻

北條秀司の脚本による舞踊劇。
イヤホンガイドや台本がないと読み取れない設定があります。

真っ暗の中、上手の演奏者達に照明があたる
冒頭の語りが現代語で
ぼくたちという一人称が新鮮
鳥獣戯画の意図は学会の謎であるときたもんだ
もうここでなんだろうこれ??ってなりますわね
絵巻が何か訴えかけてくるようだと言うんだけど、
そこに、男女の長唄や、スネアとティンパニ(幕間にティンパニのチューニングが聴こえたりして風情ある)などの音が重なるともう昭和40年代のNHKの実験的なドラマや社会派のドキュメンタリー、フィルムとビデオ撮影が混在した大河ドラマなどの雰囲気がふわぁとしてきます。
1970年代という括りよりは昭和40年代。

松緑はライオンキングを挙げていたけど
私は手塚治虫っぽいと思ってしまった
たぶん耳の先の黒いうさぎのせいだな
かわいい動物を愛でる作品と思いきや、なかなかテーマ性のあるものです

動物のいない野の風景と思われるクリーム色の世界を背景に、鳥羽僧正(菊五郎)は杯を取って、何かに思いを馳せ、この場の最後にキリリと弓を引き矢を放つ仕草をします
初回はなんとも思いませんでしたが、2回めに見ると矢を放つことに意味が与えられてしまう
インスピレーションに従って物語のない世界に波を立てたのは彼だったのかもしれない
……作り手ってやつぁ。

さて、最初は蛙。背景は大きな秋草。
この演目は元は素踊りだったそうで、今回衣裳と鬘が初めてついたそう。
男の蛙ちゃんは仕丁のような格好で頭の上に二つのお団子がある双髻っぽい髪型。女蛙は下げ髪で木綿の小袖。
初めに穴というかすっぽんから出てくる男蛙は芝翫、女蛙は萬壽。普段はゆびを広げることのない女形が手をパーにして、顔を拭う蛙らしい仕草をしたりします。
蛙は武家という設定です。これがねー、解説なしではわからない。
猿は僧。これはわからんでもない。
うさぎさんたちは公家。男寅、玉太郎、鶴松。かわいい。
蛙と猿の相撲の行司を務めるたった1匹の男狐が萬太郎。これがなかなか貴公子で良い。
狐達は男も女も長いポニーテールです。尻尾のイメージだと床山さんが書いてました。

で、最初の蛙さん達は哀れ、何者かの弓の餌食に。
それを見つけて怒る仲間の蛙たちの筆頭が橋之助。次が歌之助。橋之助蛙かっこいい。
隊列の揃った男蛙たちは達陀を思わせます。
(三谷歌舞伎の後遺症で、成駒屋兄弟蛙が亀井六郎に見えて、逆に二人六郎案外ありなのでは?と思ってしまった)。

今月も狐な時蔵を始めとする女狐は綺麗どころ。猿達の酒の相手をします。要するに猿達は破戒僧なんだね。猿僧正(松緑)と時蔵狐には際どい表現もあり。それ以外の猿と狐は毎回合コン状態。
わちゃわちゃ好きの人向けパート

お弔いに何かを知らせにくる梟に権十郎。結構はまっている。

真実を知った蛙と猿の一悶着があり、
仇である猿の僧正(松緑)を討ち取った後で血のさめやらぬ橋之助蛙が持っていた弓を、女蛙が草(菖蒲かなにか)にそっともちかえさせるのが沁みる風情でした
いくさは終わったのよということでしょうか

最後には背景に鳥獣戯画のいくつかの場面が描かれており、すべての動物が踊ります。
この音楽も、どの時代かよくわからない時代劇映画で村の人達が祭で踊るような昭和感のあるものです。土俗的音階を使いつつ西洋の拍子をちゃんと刻む感じ。
真ん中の鳥羽僧正が子供や孫に囲まれたかのように満足気に笑っていて、いつもの如く菊五郎を拝みたくなってしまうラストでした。

曽我綉俠御所染 御所五郎蔵

両花道にはなりませんでした。残念。
五郎蔵は愛之助、土右衛門は松緑。
案外理知的で話し合いで解決してるじゃんと思ってしまうのは松緑のニンのせいですかね。嫌な感じの人としてやってない気がする。
皐月/時蔵、逢州/米吉。
ひどい話だな、逢州さんかわいそうだなっていつも思うんですよ。皐月さんだってちゃんと言えばさあ。
けれども今回は、ぽーんって何もかも放り出す愛之助の切り替えにあっけにとられて
なんか夏祭浪花鑑を思い出すな。こういう転落するいい男(だった人)を描きたかったんだろうなあ、粗忽すぎるけど、ってちょっと興がってしまった。ごめん逢州さん。
それにしても男伊達ってのはめんどくさい生き物ですね。理解できんよ。

歌舞伎座夜

アナウンスで「イヤホンガイド、台本字幕サービスのお貸出は」と言ってますね
前は英語字幕ガイドと言ってたので、日本語の字幕ができたということですかね
ほんの少しずつアナウンスが変わってゆきます。
今月は歌舞伎会のご案内はなかった気がする
しかしあの5、6月のポエムはなんだったんだ。

中村福之助体調不良のための配役変更のアナウンスはひと月ずっと流れていた様子。
初日から配役変更でも土壇場の変更の場合そうなのでしょうか。

當年祝春駒

いきなりお正月ムードが漂ってしまう
遠目に見える富士山
大柄な鳥羽絵のような紅白の梅。

大磯の虎は黒の打掛で下げ髪にしています。後ろ姿が熨斗。米吉。
化粧坂の少将は髪型は兵庫、紫の打掛。玉太郎。
打掛の色が先ほどの皐月さんと逢州さんが戻ってきたかのよう。
工藤祐経は歌六
五郎は隈取きりりで、少年らしさも感じる。萬太郎。
十郎は年齢逆転だが橋之助。先入観からか和事というよりお兄ちゃん味がある。
隈が凄すぎて誰だかわからなかった朝比奈は虎之介だった。覇気のあるおどりです。
三人で踊る所にアイドル味があった。
17分しかないんだけど、「対面」って究極このくらいでいいんじゃないのと思うコンパクトさで、五郎、十郎の魅力も充分見られて割と好きです。

歌舞伎絶対続魂(ショウ・マスト・ゴー・オン) 幕を閉めるな

三谷幸喜の戯曲の歌舞伎化…ちがうな、歌舞伎を題材とし歌舞伎役者がやる演劇への翻案かな。
江戸時代の伊勢の芝居小屋を舞台にした演劇です。
3回観まして、明らかに日がたった方が芝居が噛み合って面白くなってたのがわかりました。
この演目のいいのは、作者が笑わせるための作品だとはっきり表明していて、そこは笑う所じゃないでしょ?って苛々が起こらないこと。

様々なハプニングを一個一個笑わせて片付けていくスタイルで、畳み掛けるように次から次へとことが起こります。歌舞伎のゆっくりわかりやすく伝える間とは違って慌ただしい。緩急の緩があまりない。だったら疾走感なのかというとそうでもない。ずっと、どたばたガチャガチャしている。
この芝居って全員が同じ方向を向いて芝居を続けようとする話ではないんですね。
号令役の座元や頭取がイズムとしてマスト・ゴー・オンの意識を強く持っていることと
舞台の上に出てしまってる人の責任感、
その世界への夢を見続けたいと思う人、といったものが劇中のショウを存続させているけれども、
それ以外の人は乗っかってたり、ブレーキをかけたり、投げ出したり。
普通の会社だって社長や役員は何があっても操業しようとしますし、ちゃんとやる人もそうじゃない人もいる。ばたばたして毎日がすぎる。
そのうちの割と色々あった日って感じなのかな。
昔見た「王様のレストラン」の”オマール海老のびっくりムース”の話で、鈴木京香が訳もわからず厨房に引きずられていく絵柄が浮かんできます。
いつもの一座の連続ドラマの中のある1回って思うといいかもしれない。
新解釈の千本桜、もしかして当たり狂言になりましたかね。
(三谷さんのものを沢山観てる方はもっとどれに似てるとか、いつものだなとかあるんでしょうね)

ところで、色々起こるんだけど、歌舞伎だとなんでも割とありなので、それは確かにおかしいとか、一大事とか思えないんですわ。
二人六郎(橋之助、歌之助)くらいありなのではw。並んでるだけで面白いので次回の俳優祭では福之助も一緒に三人六郎をやってほしい。

「えらいこと」の火種である座元が愛之助。その作者としての実力には逆の定評があるが、男気はありそう。あまりいい加減に見えない愛之助がドーンとかバーンとか懸命に言ってるのを見てると、狂言作者のほうをらぶりんでいく手もあったかなとも。ただそれだと黒崎さんがよぎってしまうかもしれんw
お団子食ってばかりのなんでもできる頭取が鴈治郎。初日近くは食いながら喋ってて何言ってるかわからんかった、この二人は関西弁。他の人は標準語ですね。江戸言葉ではなく。
役者出身の狂言作者に幸四郎。現場を回してる人。最後の表現を見るとこの人が主人公なのかな?(ってやっと思うくらい誰中心というところがない)
飲んだくれの看板役者に獅童。半分くらいこの人のせい。獅子の衣裳でいる時、袖に隠れてる間もその場駆け足してて、そういうとこ抜かりない。
忠信の衣裳になって出てきたときのすっきりした風情が可笑しかった。
二枚目の若旦那と裏方新人の二役に染五郎。染五郎が思う若旦那の二枚目さってこんな感じなんだなってのが面白い。
その馴染みの女に新悟。凄かったな。こんなややこしい役をよく。
顎の外れやすいでっかい女形いせ菊に彌十郎。これは”来ると思っていた枠”でしょう
ちなみに、歌舞伎座正面の絵看板に枕を持って顎が外れてる静御前が描かれていました。そんな絵他にないでしょうね。
川連法眼妻飛鳥役の女形に高麗蔵。誰よりも早くきっちり拵えをして最後までその姿なのに舞台に出番がない。でもずっといて最後にきっちり締めていく。喜劇は大真面目にのお手本みたい。素敵です。
敬して遠ざけられている大物役者に白鸚。危なっかしい雰囲気を醸していますが、10年くらい前だったら、白鸚の四角四面さが生きてそれはそれで面白かったんじゃないかな。
竹田出雲と弟子の二人連れに男女蔵、鶴松。
鶴松が怜悧な雰囲気を出しています。男女蔵は立派で朴訥の二面を活かした配役。
ポン!でそれなりの小判を稼いだと思われる囃子方に廣太郎。芝居らしくならない個性(すまん)が、淡々とgo onする役柄にフィット。
独創的な音楽を付けている附師は宗之助。三角目のメイクで別人みたい。
莟玉は普段は腰元に出ている女形の役で、色々あって静御前で舞台に上がったときに、思わず歯を見せてニカァ。お花が笑ったようで印象的。舞台写真を買いました。
「よござんす」の溜めた台詞が力強い大道具方に阿南健治。骨継ぎの玄福先生に浅野和之。お二人とも間が流石。
総踊りでは愛之助の踊りがきれいだったなあ。

徹頭徹尾裏側だけでいくのかと思いきや
舞台が回り、表側の幕もあって、ちょっと歌舞伎を見てみたかった方へのチラ見せにもなったかと思いますし、顔見世といえば顔見世?
ポンと飛び込んで、あー、見た見た面白かったで帰るのにいい舞台だと思うのでチケットがもうちょい残ってるとよかったんですけどねえ。

巡業

令和7年度 公文協主催 松竹大歌舞伎

又五郎、歌昇、種之助と歌昇のお子さん種太郎、秀乃介という、ほんとにファミリーで移動してるみたいな巡業です。
お弟子さんは又五郎一門以外に瀧乃屋、澤瀉屋、音羽屋、十字屋(抜けてたらごめん)混成。
團十郎の襲名がひと段落したこともあり、中村屋のを除くと、今年巡業はこの一連だけ? 東西中央のやつはなぜやらなくなったんだろう。
隣の県、隣の県と移動せず、一旦遠くに行ってから戻るような不思議な日程で、移動距離が大きい。なんか大変そうです。

演目は、芝居の「泥棒と若殿」に舞踊の「お祭り」が付きます。
今回できた歌舞伎のYouTubeチャンネルかぶチャンの動画第一弾が歌昇さんによるお祭りの解説です。緊張してる?

泥棒と若殿

原作の初出は昭和24年。戦後です。生き残ったものが寄り集まって暮らすようなことも多かったことでしょう。そんな、誰かと食べていくことのいとおしさが描かれた話。

最初にも書きましたが、お芝居の初演は昭和43年。口語の芝居です。暗転中も音楽が流れます。その辺りに明治大正のいわゆる新歌舞伎よりも今風な雰囲気が漂います。
最近では松緑と巳之助での上演がありました。
ほぼ2人芝居なのでコンビが違うと結構雰囲気が変わります。

若殿の軟禁された屋敷へ歌昇演ずる泥棒(名は伝九郎。略してデンク)が入ってしまう所から始まります。
上手には梅が咲いている
股引も穿かず(原作では穿いてる)尻っぱしょりに素足で床を踏み抜いたりするので、凄いふとももや、アーモンド型のふくらはぎがドーンと初っ端からお見舞いされます。巻き尺で測りたいような脚ですよ。そして痛そう。
初日はおっかなびっくりの度合いが酷かったです。
(なっちゃねえやが言えてなくて
なんちゃあないに聞こえてしまうので、ネットの一部に誤解されてました。意味が逆さや)
対して、種之助演ずる白い寝巻きの若殿(成信。のぶさん)の行儀よくちまっとした居住い。
特に初日は、刀を手元に置かなければならなかった日々について切々と訴えるさまが胸に来ました。

歌昇は伝九郎を明るい雰囲気に造形していて、洗い物をしに袖へはけて見えなくなっている間も高々と鼻歌を歌って殊更に御機嫌さを出しています。
上演時間が短いため話の段階が相当圧縮されており、泥棒が押し入ったその日から人足仕事を探すことに決め、あっという間に陽気な押しかけ女房兼旦那みたいに収まってしまうのに会場から笑いが起きていました。決断がえらく早い。

種之助の若殿は、小説では口に出して言わない所を言葉として説明するので、そのあたりは長台詞になっていて語り手のようでした。
その内側の描写があることで、どちらかというと若殿の側のストーリーに見えました。
また、最初は心の安まらぬところから、伝九と暮らすうちに伸びやかになり、事態が一変して君主の佇まいを見せる変化も面白かったです。

その終盤で若殿を迎えにくる家老、梶田は又五郎。
初日は兄弟は普通の芝居寄り、又五郎は歌舞伎寄り。(ついでに言うと家来は台詞が入っておらず)
この場面がほかと分離しているように思えました。
すべて仕組まれていたと聞かされ嫌になっている若殿に、ご家老だけが重々しく正論を言っている。
このギャップは、なんで若殿が戻る気になったのかが納得しづらいような引っ掛かりを生みます。

しかし最後に見たときは、雰囲気も調和し、梶田は若殿のお気持ちもわかると思いやる眼差しを向けたあと、君主の責任を語り、しっかり見つめたまま染み入ってくるような説得で、別の芝居のようでした。
向き合うと又五郎と種之助の横顔の凹凸がとても似ていて、無茶苦茶親子だった。

なんか、見るたびに少し変わっていきましたね。
思い起こせばちょっと前。とうかぶの1作目の時に、毎週宗近殿と義輝様のラストが進化して、最初は辛い悲劇っぽかったのが、どこかで分かり合った姿に変わっていて、これは日々関係が消化されていったんだろうと思っておりました。
同じようなものを今回の泥棒と若殿にも感じます。
自分は今回4箇所観に行きましたが、
酒を酌み交わしているときの様子が、最後の方では友達どうしのように会話が弾んでいて、伝九と信さんの暮らした二十日あまりと、巡業で重ねた日々がリンクしているように思えました。

最後の朝ごはんは、最初と同じようだけど
梅は散っていて
立場は逆転
信さんがご飯を作っている。
伝九郎は「お天気がかわっちまう」「せっかく続いていた日和がおじゃんになっちまう」といったフラグをたてつつ、
上機嫌のまま食器を洗いながら、こんな日が来るとはねーって言ってて切ない。
そこに、伝九郎にとっては突然の、お客さんにとっては予感した別れ。
こんな日が来るとはの意味が一瞬で裏返ってしまう。
これも、時間を圧縮してるもんだから急転直下です。
若殿は伝九と一緒にどっか行こうって言ったその日に別れを決めなければいけないし翌朝には出ていくことになる。
「みんな逃げてしまうんだなあ」と笑ったのぶさんが、自分で出ていく。
夕べの今でそれは冷たいよー。もうちょっと日付が経った描写があればいいのに。

で、表に出ていく信さんを追って、
まさかの、巡業の汎用のホールで、大道具が回ります。
舞台でなく道具の側が回ってるってこと。
これはびっくり。
回り切ると満開の桜の木の根本に菜の花
春が来てたんだね。梅から桜へ。
桜が別れの季節と思ってしまうのは卒業のイメージがあるからでしょうかね

幕切れの伝九の心模様も見るたびに違って、
初日の伝九郎はがっくりと絶望して膝を付いていました。
絶叫型の日もあったとか。
中盤では出来る限り笑って見送ろうということか、泣きそうになっても笑いなおして、泣き笑いのままだった日もありました。その日は若殿も膳を揃えながら庶民のように捌けた感じで、楽しいままに消えようとしてたみたいでした。
最後の方ではできるだけ笑って、馬の蹄の音が聞こえるうちは立って見送っており、それから膝をついて涙を流していました。
その、自分が置いて行かれた絶望を一旦しまい込んで、成信の立場を思い未来を思いやるように自分を励まして見送っているさまにひと月が映るようです。

のぶさんが「また会おう」って言ってたからきっと会えるよ。

お祭り

会場によって緞帳が上がるか、定式幕が開くと、浅葱幕が張られています。
でも左右の端から背景の大きな絵がはみ出していて、どうやら右側にでかい象がいるんです。
お祭りに象ってどういうことなの?って思ってましたら、
浅葱幕が落ちるとさまざまな山車が背景に描かれていました。なるほどねー。
遠くには富士山も見えてめでたい。今月はめでたい図柄が多いです。

又五郎の鳶頭。
お祭り系でいつも結構不思議なのがとりあえず若い者と立ち回りした後、その人らと”そういえばタケガシラはまだか?”みたいに普通に会話してるの。なんでそこでいっぺん喧嘩するんだろう?っていう。訓練?
遅れて歌昇の鳶頭と、若すぎる若い者種太郎、秀乃介、芸者の種之助が出てきます
先ほどの泥棒と若殿だとわからなかった人もいたでしょうね。目の覚めるような白塗りの美男美女。パパママなんだろうか?
揃った所で客席もいっしょに手締めをします。楽しい。
歌昇がぱぱぱんと手を叩くと白い粉がふわぁとたちのぼって、なんか久々に見たぞ、手え叩いたら粉が舞う人。
歌昇は芸者と鳶で組になった踊りと、奴道成寺風の三つ面取替の踊りと、獅子舞までこなして大サービスです。長く踊る割にぜんぜん顔が見えないですが、満を持して顔を見せる時の得意げな笑みが歌昇らしい。二の腕の彫物がちらっと見える色気も良い。
種之助の踊りがちょっと少なかったな。いい所で割り込まれてしまう。
小さい子達は、初日のほうが音に合わせて踊れていたかも。
お兄ちゃんと弟の体格差がかなりあるので、種太郎がぐっと沈み込んで高さを合わせる場面が何度かありました。
歌昇、種之助もそうして合わせてきたんだなとしみじみしちゃいます。
又五郎が、大きいおじきにも見えるようにって言ってました
吉右衛門のことかしら
見守る種之助は終始アルカイックスマイル。
秀乃介くんの前歯が抜けててかわいかった。まだそんな年頃なんだな。

アクロバティックな若い衆も縁台からの帰り落ちや、台の上でのとんぼなどで会場を沸かせていました。

清水の会場はナチュラルに
とんぼに「すごい!」
子供達に「かわいい!」
って声に出してる方がいて
歌舞伎座だと客席の声はとても目立つんですが
会場のせいか個々の声や音が聞こえるのでなく客席がざわざわする感じで
目の前のものをみんなで楽しんでるようでした
大道芸の雰囲気も思い出したりしました
もちろん喋らないでほしい所ではある。あと携帯を切るのは各会場もっと呼びかけてくれてもいいですね。ただの建前だと思ってる人がいるからね。

こんなに巡業を追っかけたのは初めてかもしれない
いつもは行けて二回がいいとこだもの。楽しかった。

ほか

ミュージカル エリザベート(シアターオーブ)

先月行きましたが、もう1枚取れてたので2回目の観劇です。
シアターオーブの1階は音がびみょーな席があるらしく、今回それに当たったかもしれません。
前月ほぼ天井で見た時の方が言葉がよく聞こえました。納得がいかないぞー。が、景色がぜんぜん違うのは面白いですね。オケピが見えないので、普通の舞台みたいに見えるのね
この日のキャストは
望海風斗、井上芳雄、田代万里生、中桐聖弥、涼風真世、尾上松也、加藤叶和。

望海さんシシィ。自分を貫き通して生きた強いシシィでした。役者さんのせいではなく、人物像的にほぼ共感できないけど、自分の道は自分で決める所だけには、そうだよねって思う。
んで、トートは前回とおんなじ井上さんでした。
この方の声は、声を身体のどこか(胸とか喉とか頭とか)に当てている感触や、バリバリしたエッジの硬さがなく、拡散してしまわず、共鳴するのでもなく何にも干渉せずにするんと響く深い声でなんとも不思議。こういう発声法があるんだねえ。
#今シーズンでひと区切りとのことでした。見られて良かった。

松也くんルキーニはやっぱミュージカルの人の歌ではないけれども
その声は言葉を届ける。
遠くでも近くでも言葉として聞こえる
母音にもエッジがあるというか
歌だけど台詞ですねえ

彼のルキーニは役ではあるけれども浄瑠璃の語り手のようなものだなと思います
太夫が語り始めなければ物語が生き返らないゆえに
毎日毎日目を覚まし
彼が息絶えると狂言は終わる

自分以外の人物になりかわりながら自在に物語を拡げていたものが
突然我に返り自分自身として物語の中へ入っていく奇妙さ
(役者はひとりだから物語の内と外で同時には存在できない。)
彼は必ず決まった最後の一手で物語を終わらせることを強いられている。
きらきらした理由でなく、ありそうな理由を述べて
エリザベートに迫る死の影として忍び寄り、手を下す
そこだけはルキーニが邂逅した現実ってことやな

そうやって召されたエリザベートを腕にしながら結果に驚いているトート
2歳くらいの子はバナナを食べたらバナナがなくなってしまったことに絶望して泣くらしいですが、食べたら無くなるんだよ
知らんかったか

いつ死ぬか決められている者と死を司る者の話を芝居にしても話を変えようがないじゃない?って最初思ったんですけどね
変えられないものを何千回でも何万回でも繰り返すこと自体がドラマなのかなあ

全然関係ないんですが、しばらくの間、松也ルキーニを思い出すとポーギーとベスの “It Ain’t Necessarily So”が浮かんできてました。必ずそうとは限らないよ、って曲。
まってぃー、サミーデイヴィスJr.の歌うような曲は合うかもしれない。


ほかに、踊りの会1つ、ライブ1本。


片岡亀蔵さんの訃報
歌舞伎座夜の部を見に行こうとしていた時のことでした
びっくりすぎるニュース
そんなことある?
こんな日の演目が Show must go on とは。

私は團菊祭などの一座で拝見することが多かったです。
人じゃなかったり、見るからに一癖ある役が印象的ですが、最近の八代目菊五郎丈の芝居では、いい人の役がくることもあって、亀蔵さんだと裏があるのかな?って途中まで疑って見ちゃうんだけど普通にいい人なんですよ。そっちが素の亀蔵さんに近かったのかなあ。
先月の御園座では、のちに鼠小僧の生き別れの父とわかる物静かな木戸番のおやじさんでした。
今回の万博には何度も通われていたと配信で話していました。
それが見納めでした。
不慮ってこういうことだよなあ。
寂しいことです。

(2025.12.6 junjun)