玉手、玉手、玉手(2001.5 歌舞伎座。(團菊祭))

最終更新日

玉手、玉手玉手

團菊祭
2001.5 歌舞伎座
昼の部:源氏物語 須磨明石の巻
夜の部:摂州合邦辻、 英執着獅子、伊勢音頭恋寝刃、関三奴

玉手と万野と
5月は昼一回、夜二回の観劇。
昨年は源氏フィーバーー(語彙が古い…)のアオリを受けて、源氏物語のチケットが取れなかった。
なわけで、今回初めて、あの、源氏物語を見ることになった。
終わってみれば、昨年のあの大騒ぎはいったい何だったのか、と思う。
昨年は松竹のホームページに掲示板(BBS)までできてしまって、やれアレは歌舞伎じゃないだの、脚本が悪いだの、そんなこと言ったら役者さんがかわいそうだの、いやいや言ってやるべきなのだだの、新ちゃんあなたは最高よーー、だの、とにかくものすごかった。あれを管理していた人は苦労しただろう。
今年はどこを見てもおとなしいおとなしい。
私は、今年の舞台でそこそこ感動できた。新橋演舞場の方が似つかわしい、という感想はあるんだけどね。
夜は…。正直な感想として、夜いちばん面白かったのは、踊り二演目。
雀右衛門の踊り。赤い色、白い色。思わず、かわいいー、とつぶやいてしまう。
関の三奴は、二人で踊る楽しさで、とても良い気分になる。辰之助のおどりはまだ、からだ固そーーー、だけど、まあこの先長いから。あと10年もたてばさ。なんて気が長いことを思うのだった。
芝居のほうは、合邦、伊勢音頭とも、あまり心動かされなかった。
合邦の方は、見ながら玉手という役の意味がつかめなかったことが大きい。玉手はわたしの手に余った。彼女の本心はどこなのか。少なくとも最後の述懐にあらわれてくる彼女の心の本当が見えなければ、この物語には感動できない。私は、芝居を見ている短い間には、そこにシンクロすることが出来なかった。
万野は、菊五郎の江戸っ子気質が出てきてさばさばとした悪女になっていた。本当なら、このおばはんがみんな悪いんや、と思うところが、万野が正しいような気がしてくるほどだった。すると、後半、貢が刀を抜いて万野を斬り、その他大勢を手に掛ける様子が、なにやってるんだろう……という風に見えてしまう。(別の話だけれど、御所五郎蔵を見ているときにも似たような気分になる。)こんどは貢にシンクロできない。いくら斬ってもめでたしめでたしなのには大概なんの疑問ももたない私が、今回はかなりの違和感を抱いた。
そんなわけで、私としては、万野と玉手と、どちらが好きかといったら万野。
…だったのだが。日が経つにつれて玉手の存在感が大きくなってくるのだ。
(2001.6.3)

玉手と万野と(2)
菊五郎が大嫌いな人、なんてのは、めったに團菊祭なんかには来てないと思うけど、もしいたら、うわっ、しまった、やばいものを見てしまったって感じかもしれない。
玉手のしぐさのひとつひとつが、とてもとても菊五郎なのだもの。
世の中の多くのひとは、あの、うわーっ、おかあさんやめてー、と思わずどぎまぎしてしまうアレを「色気」と呼ぶようだ。今月はその言葉、本当にあちこちで見かけた。
年増の色気、って便利な言葉じゃないか。「若くはないけど芸による色気がある」。便利すぎる。菊五郎の女形を見て、隣の菊之助の無機質な美しさと比べながら、こっちのおばちゃんの年甲斐もないサービスぶりは一体……と、ためらいを感じ、目を背けたいような、でも目が離せないような。当惑。これは、美しいのか。良いものなのか。誰か私に評価を、指針を。
そのときが「年増の色気」の出番だ。これであの手に余る玉手がまるく収まるのだ。
…だまされてるような気もするけど。
しかし、押さえ込んだつもりでいて、自分が丸め込まれていないか?
年増の色気、って言われてああいうのは思い浮かべないって。
役者が丸め込もうとしてるわけじゃないのに、自分のボキャブラリーのなかにある言葉に丸め込まれてしまう危険。
あのわけのわからんチカラは、はたして色気だろうか。
わけのわからんもんは、わけわからん、としか言いようがないような気がしてくる。
私は、やはり、玉手ならば立ち上がって刃物をかざす、その力強さに魅力を感じる。
ちなみに、演劇界の劇評では、この部分「淡白」と書いてある。この場合淡白という語感は合わないような気がするけれども、嫉妬にかられて嫁(?)を往復ビンタするような姑の憎しみ・おぞましさがないという意味なのかもしれない。
それがないゆえに、なぜ偽りの恋で姫に刃を向けるまでのことをするのか、とすこし疑問が残る。
だが、そのシーン自体には魅力がある。
その一瞬の豹変。噴きあがる激しい炎、強い意志、まっすぐな力。
菊五郎の女形でぞくりとするのは、こういう一瞬なのだ。
このとき彼(彼女)は、一気に年齢(と、ときどき性別も)を超えてしまう。
女を作っていたときにはかえって年齢が見えて「年増の色気」になってしまうのだが、がらっと変わって別の本性を見せるときに、マジックは起こる。
(2001.6.4, 6.9)

以下、例によって、まささんの「がんばれ菊五郎」に寄稿した文章を載せておく。
團菊祭
2001.5.5 歌舞伎座 昼の部 源氏物語
源氏物語は、芝居として思ったよりも面白い。台詞は変だけど。
本人たちの抱えた問題の大きさとはうらはらに、台詞の変さで笑えてしまう。これは狙い?それとも?
福助の明石の君。プライドが高くて気の強い女。出てきた瞬間からぴったりすぎ。
この明石さんが最後まで良い役。これでもかと降りしきる雪の中の子別れでは、すっかり持っていってます。
子供のない正室と、子は産んだものの不安な日々を送る側室というのはよくある図式で、源氏物語だから何かが違うかというと、別になにが違うわけでもない。外に女を作られれば悔しい。置き去られれば寂しいし、親子の別れは悲しい。それが分かるのが、ある意味この芝居の収穫だろうと思う。
光君は、輪郭がぼんやりしている。だが、雷に打たれ、「行こう、明石へ」と決心する場面、懐妊を告げられてその子を后につけねばならぬと誓う場面、そして、姫を手許に明石の上の前から去る場面、のようにきっぱりとした意志が感じられる場面で、新之助の魅力が出る。
菊之助の紫の上。気丈な若い女は個性に合っている。立ってしまうとやはり男っぽくなるのだけど。
菊五郎は、帝。すーーーーっとよどみなく朧月夜への述懐を述べて、あれあれと思ってるうちにおわっちゃう。もっと出せー。
團十郎の明石の入道は結構いいと思うけど、ちょっと台詞を聴くのが疲れるかな。

2001.5.14 歌舞伎座 夜の部
中央通路すぐの席。仕事の都合で30分遅れて着席。自分が着席するのに都合の
よい席だが、ひとさまが遅れてぞろぞろ入ってくるときもことさら気になる席。
舞台は大変よく見える。
さて、お芝居。
合邦
玉手とお姫様の対比が面白い。恋のために手段を選ばない玉手。潔癖に気丈に
玉手をなじる浅香姫。まだ何にも染まっていない真っ白で鋭い、だがかぼそく
今にも折れてしまいそうな姫のイメージ。対する玉手の色・艶・量感・迫力。
しかも、菊五郎、マダムモード全開。俊徳丸のココロを代弁すれば、うわー、
あっち行って。迫ってこないでーー。
もし姫の役者がもうひと世代上か、玉手がもうひと世代下かだったら、もっと
拮抗した緊迫感があったかもしれない。しかし今回は玉手ゴジラのひと吼えで、
浅香姫、折れて泣き崩れる、という感じ。
後半、真実を告白する段になるといきなり聖女になってしまう玉手。
うーん、また自刃してしまうのねー、と勘平を思い出しておりました。
伊勢音頭は、ちょっと語りようがなくて、パス。

2001.5.26 歌舞伎座
合邦
玉手ふたたび。
菊五郎は、前よりきれい。若い。
玉手というのは理不尽な役だ。見る側に自分で彼女の行動の意味を消化しろ、
と要求する役である。
彼女は自分のストーリーを自分で書いて、その大義があるがゆえに、あんなに
わけのわからない、大胆な女になってるのだと思う。惚れたのが先だったか、
筋書きが先だったか、それはもうわからない。そこに、俊徳丸を守る玉手(も
しくは、その手段として俊徳丸に惚れている玉手)、という存在が絶対必要だ
から、無理だろうが非道だろうがそうなってそこに居なければならないのだ。
あっちからも惚れてもらう気、なんて言ってる間はまだ正気というか芝居なん
だろう。
菊五郎のあの過剰な色気は、装っている色気というか、そういうところから出
てきてる気もする。
私は、やっぱり、意見をする奴入平を押し飛ばし、押し飛ばし、かんざしを引
き抜き、戸に閂し、短刀を振り上げる、あの玉手(の菊五郎)が好きだ。たと
え、うそから出たまことだったとしても、その瞬間に噴出する彼女の心。
玉手は芯に燃えるものを持った女だ。
私には、彼女が彼女だったのは、その瞬間だけだったように思える。
白い装束で述懐し、俊徳丸に自分の血を与え、召されていく玉手は清く美しかっ
たけれども、ただ、ただ、自分の書いたストーリーの最終章を再生しつづけた
だけだ。彼女はもう生きてはおらず、あれは、この世に残した「念」か、とも
思う。

伊勢音頭
なんか、こう…起伏のないというか…なあ。最後も、こんなでいいのかなあ…。
もう一場面前から話をしてくれたら、まだ世界に入り込めるような気がするの
ですが。
前に見たときは、菊之助のお岸が、あー、やっぱり立つと男の子になっちゃう
と思えたが、このときはそういうこともなくふつう。
今回はずいぶん前のほうで見たので、お紺(時蔵)のきれいなこと、そのくや
しさ、無念さ、いちいちよくわかる。だが、それは「わかる」なので、シンパ
シイまではいかない。
貢(團十郎)となると、もう、ひとりで怒っちゃって、なんでしょう?? って
思えてしまう。
際立つのは喜助(三津五郎)と万野(菊五郎)。
この話、「喜助と万野の江戸っ子対決」(←気分的に江戸)に見えたりしちゃ
あいけないんじゃないかなあ……って思うけど、その図式がいちばん面白かっ
たりする。
あと、振り返って、ふーーっと煙草の煙を吹きかける万野さんなんか、何べん
でも見たい。
万野が主役だったら、これで問題ないんですけどねえ。
最近、菊五郎さんが女形の月、立ち役の月とわけている(のか、偶然分かれた
のか知りませんが)のは、結構いいんじゃないかなと思う。
女形のときの調子がよさそうな気がします。

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