歌舞伎座 板東三津五郎襲名(の菊五郎) (2001.1, 2001.2)

最終更新日

2001.1.20 歌舞伎座 板東三津五郎襲名 夜の部

曾我の対面
八十助改め三津五郎の曾我五郎、菊五郎の十郎。
豪華スター勢揃い。(…それ以外に書きようがない)
劇評では、そろって、五郎の「正しさ」というか、基本がしっかりできていてこその、この五郎、というあたりを誉めている。
私は、その辺がわかるほどの目はない。よくわからない。
十郎は、はやる五郎をとにかく制止する役。
手をぴんと五郎の前に伸ばし、いやいや、いかぬ、待つのだ、というふりでちいさく首を振り、横目で制止する。
その目がすごく菊五郎。

口上
11月のらくだでも、八十助の次は3度目の女房、ネタで笑いをとっていた音羽屋は、口上でもその辺をネタに。
この辺をはっきりネタにしていたのは左團次と菊五郎。
毎日毎日こんなこと言われてるわけで。2月も同じようなことを言われてるわけで。都合60日ほどでしょうか。
これから、大阪、名古屋とあるわけで…プラス40日ほどでしょうか…。
三津五郎も大変です。

(2001.2.17)

2001.2.10 歌舞伎座 板東三津五郎襲名 昼の部
十六夜清心
菊五郎の清心、玉三郎の十六夜。
十六夜清心、というのは、悲劇か、喜劇か。
悲しいことはすべての面からみて悲しいわけじゃない。まわりから見たらひどく滑稽かもしれない。
ではあるけども…。

清心というのは、菊五郎の芝居を見る限りでは、はっきりした信念をつらぬけるような意志をもった人物ではないようだ。女犯の罪を犯したのを悔いてもう一度出家得度しようというのも、長年坊主をやってきたのでそういう思想に影響されてしまっただけ、のように思える。そして十六夜が連れていってもらえなければ廓にも戻れないから死んじゃうというのを聞いて、自分もどうしようもない気分になって、一緒に身を投げちゃう。(というふうに見える。)
が、死ねない。その、悲しいおかしさ。

もともと大した意志もなくふらふらとしていたのが、他人の目というつっかえ棒を失い、悪い方へ振れてしまう。(それもそこのところだけはっきり自分の決断なんだから皮肉だ。)清心が坊主だったのは、多分、単なる偶然だ。

で、これを笑いに来る観客がいるのは、道理。菊五郎は、はっきり、笑ってくれという演技をしてるわけだから。

けど、十六夜は、自分と通じたために追放されてもう会えなくなってしまうかもしれない清心に、廓を抜けて必死で会いに来て、鼻緒を二回も切って。そんな彼女を、もう、最初から観客が笑う。 必死さが可笑しいか。鼻緒が切れてこけるのが可笑しいか。どちらにしろ、笑われる十六夜(玉三郎ではなく。玉三郎がどういう反応を期待してその場面を演じているのかはいまいちわからないから。)は、気の毒だ。
(2001.2.17)

 

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