「開かず近海とウラン間」と変換した某日本語変換ソフト、あとで職員室に来なさい。
ときは、将軍徳川秀忠の時代。江戸の町に暗躍する悪の影、裏柳生。
だが、江戸の町に血が流されるとき、赤頭巾が現れ、人々を救う。
NHK時代劇の中では異色の部類にはいる「△△実ハ○○」式の変身のある時代劇である。
NHK時代劇の中では、と書いた。民放では…というか古典的な時代劇では、普段は普通の人だが実はお奉行だったり将軍だったり殺し屋だったり、あるいは、見せ場になると主人公が覆面をかぶってチャンバラしにいくとか、普段の姿と、ここぞというときの姿が違っている場合が沢山ある。(NHKでは「鞍馬天狗」とか)
赤頭巾はこれ式で、普段は情けない作之介が、突如風呂敷抱えて「ちょっと出かけてきます」とどっかに行ったかと思うと、風呂敷の中の頭巾を掲げ、「正しきものよ来たれ、清き血よ燃えろー」と叫んで一回転、赤頭巾の出来上がり、で、かっこよく敵を倒す。
だが、作之介が赤頭巾になって敵を倒すこと、は、この作品の主眼ではない。
裏柳生の柳生烈火が性懲りもなく悪巧みをするので、一応赤頭巾がやっつけにでてくることが多いが、そこまでの物語はチャンバラのために作られているのではない。
チャンバラはあくまで脇である。
では、赤頭巾ってなんだ?作之介が赤頭巾になる必要なんかあるの?ヒーローものじゃないんだから、そんなの要らないじゃん。作者はなぜ赤頭巾という存在を作ったのか?
実はたぶん、それを考えさせるのがこの作品の一つのテーマではないかと思う。
作之介の心に住むもう一人の存在、赤頭巾。作之介が赤頭巾になるのは、彼が意識的にそうしているのではないふしがある。血の匂いによって引き出されるもう一つの人格といったもののようだ。
作之介の心を2つに分けたもの、それは、戦、であった。
この作品のヒロインであるお京は、作之介が時折口にする「ツル姫」が彼にとってどんな存在であるのか、を彼の師匠から聞き出す。
作之介はかつて羽衣家という大名家でツル姫の話し相手をしていた。ツル姫と作之介は似ていた。体は違っても心は一つだった。だが、戦が起こる。赤い火事装束で、毅然と正座したまま、ツル姫は炎に包まれていった。作之介はツル姫を助けられなかった。お京は、作之介と一つだったというツル姫には勝てないと思いショックを受ける。
赤い頭巾はそのツル姫の火事装束である。作之介が自分の半身であるツル姫を失ったとき、赤頭巾というもう一人の存在が誕生した。
もう一人の私。
家康、は実は影武者で元は猿回しである。元の自分を捨てて家康という別の人間として生きている。さらに、本当は弱いのに柳生の当主になってしまっている宗矩。本当は自分こそ柳生の当主であるべきだと思っている烈火。教主の娘という宿命から逃れて江戸にやってきたお京。裏切り者の松を助けたいと思いながら、主人の烈火にも逆らえない紅。今までの自分を否定し死に場所を探している松。昼間はお京の店で働いているが、実は忍者の治助や、きくたち。
一方、裏も表もないような、魚屋の一八(いっぱち)は突然大金持ちに、大したことないのに役人風を吹かせていた市中見回りの御手洗藤左衛門薫は、いきなり奉行に出世して、今までとは違った状況に放り出される。
あるべき自分、かつての自分、他人から見た自分、隠している自分。どれが本当の自分?自分って何?
赤頭巾快刀乱麻は、自分探しの物語でもある。
普通の変身ものなら、主人公の強化服を他の人が着込んで活躍したりすることはあまりないが(ショッカーライダーみたいなのはあるけど)、この作品中では複数の人物がそれぞれの思惑で、赤頭巾を身にまとう。
本物のツル姫の赤頭巾をまとったのは少数である。しかし、装束が本物かどうかはこの際…少し関係あるがまあ関係ないことにしておく。
要は、誰でも赤頭巾になれるということだ。
もちろん、作之介にとってツル姫の赤頭巾は特別な意味を持っている。
ツル姫の赤頭巾は作之助にとって、ツル姫の心の象徴であり自分とツル姫の心を再び一体化するためのアイテムである。(だから、その呪縛を解くためにお京は赤頭巾を隠してしまう。)
だが、その一方で「お美しくて気品があり優しくて公明正大で英知にあふれた」「神様のような」ツル姫とその赤頭巾はこの作品に於けるそういった正しきもの、清きもの、尊きものの象徴でもあるのだ。
作之助以外の赤頭巾を「偽物」と言ってしまうのには抵抗がある。むしろ、すべてが本物だったのではないだろうか。皆の自らの心の中にある赤頭巾の表に現れた姿だったのではないだろうか。
「赤頭巾とは」という問いには、最後に紙芝居のおじさんが一つの答えを用意してくれる。最後まで物語を見た人はおじさんの言葉に耳を傾けよう。
Last modified: Wed Apr 1 15:16:16 1998