の門の思い出

三浦浩一のこと

主人公が走ってるオープニング、というのがときどきある。

大河ドラマの秀吉がそうだ。子供時代の秀吉が金色の粉を巻き上げながら走ってゆく。彼は我々をおいて遠くへ駆け抜けてゆく。役所広司の宮本武蔵も走っている。決意したように走り始めダイナミックに走ってくる。

風神の門の主人公の才蔵も走っている。
冒頭、振り向きざま刀を抜き右斜め上方へなぎはらった次の瞬間から、才蔵はひとり走ってくる。白く乾いた土の道を、一生懸命ではなく、淡々と一定のリズムで走る。彼との距離はなかなか縮まらない。彼は画面の前の我々と一定の距離を保ったまま走り続ける。

だが、彼はそこで前のめりにこける。いきなり視界から消えるという、あれだ。
しかもわざわざ ぬかるみのところで。ばたびっちゃん、と擬音を入れたいようなこけ方をする。
地面はどろんこだ。まともにつっこんだ彼は泥だらけになる。顔にも泥がはねている。起きあがった彼は二、三歩走りかけながら、あーあ、のていで、手に付いた泥を振り落とそうとこころみてぱたぱたと振るったりする。

しかしそれは一時のこと、才蔵はまた走り始める。淡々と、少しずつこちらに向かって走り続ける…。

何年かたった後のことだ。
多分、テレビに三浦浩一が出ていたのだと思う。「三浦浩一だ。」というと、母はこう言った。「ああ、走ってきて水たまりでこける人でしょう?」
それはひどい。あまりにひどい。でも合っている。「そうだよ。」
その後何年もの間、三浦浩一を見かけると「走ってきて水たまりでこける人」と言って笑い合った。

母は亡くなった。数年になる。
妹はあのころ小さかったから才蔵のことはきっと知らないだろう。

忍術…とは無縁だった私のこと

風神の門は忍者の話である。あとから知ったのだが、この作品は忍術というか仕掛もすごかったらしい。
それを強調したすばらしー話(#10 大殺陣)もあったことが「男泣きTVランド」、に書かれている。たまたまその話のスチールをもってるのだが、尼に変装したお国と強力(ごうりき。荷物持ち)風の佐助、いつものももたろさんみたいなかっこの才蔵が宿の入り口の土間に立っているのが写っている。 これから獅子王院の仕掛けた罠が盛りだくさんの宿にまんまと泊まらされてしまうところらしい。

ところが、私は、忍術という忍術、ひとつも覚えていない。
風神の門に限らずどうやら私はドラマのキャラクター以外の部分については非常に記憶が薄いらしい。
確かに爆発がどーーーんとか、そういうのは他の時代劇よりあったかも知れないなあという程度。それって忍術?
いや、ひとつだけ覚えているものがある。
才蔵や獅子王院が青姫の部屋に現れるとき、彼らは戸を開けずに、ただいきなり出現する。
獅子、と呼んだら、はい、と目の前に出て来ちゃう。(マンガだったら“ぼんっ”、と書き文字のはいるところ。煙が出たかどうかは忘れた。)
これもちゃんと考証に基づいてるのか、おい? と聞いてみたいところだが、それはおいておくとして。
なぜそれだけ覚えているのかには思い当たるふしがある。
青姫が、出現した獅子王院に愚痴を言うのだ。才蔵も獅子王院もずるい。自分は外の世界に出ることができないのに彼らは自由に出入りできる、と。
世の中の全員が才蔵と獅子王院が相容れない敵であると理解している中、青子だけは彼らをいっしょくたに考えている。
そんなシーンがあったから覚えているのだと思う。

三人の忍者

獅子王院が好きだった。今思えば、幸村に石垣を築く話をされたくらいで「俺はごろた石になるっ」(ごろた石というのは、石垣の大きな石と石の間にある小さな石で、影で石垣を支える存在)とか決意してますます幸村にかたむいてしまう単純な、なやみのなさそうな才蔵、もなかなか魅力があると思うが、当時は断然獅子王院に思い入れがあった。
理由はたぶん、変だから。…では身も蓋もないか。
前髪を切りそろえ、およそ化粧の似合わない男臭い顔を白く塗り、ぎょろ目でにらみつけ、丈の短い黒い着物で太ももをちらつかせ、感情を顔に出さず、圧倒的に強い獅子王院。彼は他のすべての登場人物と比べても際だって異様だった。
普通、霧隠才蔵のライバルは猿飛佐助だが、ここでは佐助はあるじ持ちの忍びとして、独立独歩の才蔵との対比材料という感じがする。非常に常識的な人物である。比べて獅子王院は、非常識な風体、容赦のない冷徹なやり口で徹頭徹尾才蔵の「敵」であった。それは最後まで変わらない。
だが、獅子王院は、青子に心を動かし、忍びという身分から武士になる野望を持つ。
しかし、彼はそのために道を誤り、すべてを失った。心を持ったことが彼には悲劇となった。
もうひとりのライバル佐助は、豊臣方のために働き、隠岐殿に殉じて大阪城の炎の中に消える。
自分の意志で生き、どちらにつくかも自分の意志で選び、戦が終われば忍びという生業さえ捨てる才蔵と、別の生き方をした二人の忍者を考えるとき主題歌の「同じ時代を過ごしていても違う時間をつかんでいた」という言葉の意味が浮かび上がってくる。

ある投書

風神の門、の原作は一応「風神の門」と「城塞」である。「城塞」からは“大阪の女ども”(そう書いてあるんだから仕方ない)と家康との戦いの部分を取り入れたのだろうと思う。主要キャラクターの方は「風神の門」の方からとっている。
原作のことを考えるとき思い出すのは、新聞に載った一通の投書だ。
投書の主は、NHKの「風神の門」が原作とは違った筋で、役者も新人ばかりと不満を述べていた。
(こんなだから、予定より早くうち切られるんだと書いてあった気もするのだが別のところで読んだかもしれない。定かでない。)
私としては、もっかのところいちばん面白いと思っている番組に文句を言われたわけで、原作と違っても、役者さんが若くても面白いじゃないかー、ちゃんと見てよねーと思ったわけだ。
私が原作を読むのはそれから7、8年後になる。 やっと読める歳になったといってもいい。
読んでみた結論は、うわー、違いすぎ。である。
原作と違うと主張する投書の意見は一理ある。十理くらいあるかもしれない。

でも、原作と違うから面白くならないかといったら違うだろう。私はそのころ小学生だったから、小学生が見て面白いようなストーリーや道具立ては、ひょっとしたら大人には面白くなかったのかもしれない。だが、風神の門は原作お構いなしでそれぞれのキャラクターのドラマを繰り広げたからこそ後々まで語り継がれる佳作となったのだと私は思っている。


[ 時代劇のページへ ] 
[junjunのホームページへ ] 
junjuns@geocities.co.jp

Last modified: Sat Nov 14 22:08:45 1998