世話であった

2008年5月歌舞伎座 團菊祭

青砥稿花紅彩画 (通し)

弁天小僧菊之助:菊五郎
南郷力丸:左團次
日本駄右衛門:團十郎
赤星十三郎:時蔵
忠信利平:三津五郎
柵:田之助
青砥左衛門藤綱:富十郎
浜松屋宗之助:海老蔵
浜松屋幸兵衛:東蔵
鳶頭清次:梅玉
千寿姫:梅枝
大須賀五郎:男女蔵
川越三郎:市蔵
井皿子七郎:友右衛門
木下川八郎:松江

2008/5/8 夜 3列12番 (「は」であります。)

何年ぶりかな。
この間の菊五郎@歌舞伎座のときも見たけどさらっと終わってしまった。
こんどはたっぷりある。

初瀬寺花見の場、御輿ヶ嶽辻堂の場、稲瀬川谷間の場

初瀬寺からの通しははじめてみた。
客席を桜にみたててよい景色というところ、舞台と客席をつないてよい感じと思った。
また日が暮れ、忠信が同じ客席をみて夜桜をほめる。
全編にわたり繰り返しを意識した本でそこが面白い。

ここらで菊五郎。出てきたときに、あごが梅幸さんそっくりになったなあ、と思う。でっぷりと貫禄がある。

この幕は新薄雪物語の見立てだそうである。
信田小太郎と奴駒平さんが入ってきて、お芝居をして、「ついうっかり」(偽の)素性をもらしてしまうところは、浜松屋へやってくるお嬢さんと同じパターンであって
最初から見た場合、浜松屋のところに来て「や、前と同じパターンだな。ははーん、また騙りだな」と気づくしかけ、なのだろう。
これはさぞわくわくしただろう。
貴公子の弁天小僧が、悪党になり、次にはお嬢さんになって出てきて、さらに見あらわし、しかもちゃんばらまである。弁天役者びいきとしては何回でも見たい芝居だったに違いない。
しかし、こんにちの我々はたいていの場合浜松屋を知っていて、のちに序幕を見ることになるから、ああ、ここが繰り返しになっているのだなあ、という種明かし感を感じつつ想像するばかりである。(スターウォーズエピソード1を見て、ああ、歴史は繰り返すのだなあ、と思ったことを思い出した。)
あとは忠信がいい役。赤星はいまいち情けない。花水橋での切り盗りで今牛若と呼ばれるほどの美しい悪党ぶりが稲瀬川のせりふだけとはもったいない。悪への転落の道をサイドストーリーとして見てみたい気がする。
後ろに座ってた人は、いつもここからやればいいのに、と言っていたが、さほど起伏がある話ではないので全とおしは結構こたえた。
だんまりとか、特に次につながらないし、もう、次に行ってもいいよーと思って見てた。南郷、なんで虎かぶって出てくるのかわからねえ。本歌があるのかな?
だけど、蔵前以降をやるなら、前半もやらないと話がつながらないというのは確か。

浜松屋見世先の場

memo: この日、橘太郎さんが七代目尾上菊五郎でございましょう、の次に十二代目市川左団次、と言ってしまう。(ここは團十郎、三津五郎等等の後、やっと四代目市川左団次となるはず)ぷぷー。すごい省略。笑いをこらえる菊五郎。お嬢さんだから「ばーか」とは言えない。

お嬢さん菊五郎が緋がのこを出す場面、わからないようにそっと混ぜるというのを上手にやっている。最初、上に置いて見比べる。「この麻の葉の」ほうを選ぶ。店のものが目をそらした隙に、重なっている緋がのこの何枚か下のほうに、そっとまぜる。それからあらためて重なっている下のほうから問題の麻の葉の切れを出してきて見比べて、こんどは少しわかりやすく懐へ入れる。下のほうにあったものを出して懐に入れた、これは店の品に違いないと見える。その辺が弁天の周到なところだ。
このように見えたのは今回がはじめて。今まで「ばれるようにやってるな」というほうばかり見て、見落としていたのだ。
それから南郷の芝居にはいる。時代味を抑えてやや控えめである。
その南郷の「いやさ亭主を呼べ」というせりふを言い終わるより前に「あるじ幸兵衛ただいまそれへ参ります」と出てくるのが世話の間である、という芸談(五代目の)を読んだことがある。
幸兵衛は奥でやきもきしながら様子を聞いているのだから、ということである。
今まで、それを実践したと思われる舞台には当たらなかったと思う。
今回の幸兵衛は、「亭主を呼べ」にかぶさるように「あるじ幸兵衛ただいまそれへ」と出てきた。
それで「世話」という言葉が念頭に浮上してきた。なるほど、そっと細工をする弁天も抑え気味の南郷も「世話」であるか。

そこから男とばれるまではまあまあ型どおりである。
菊五郎劇団としてはすこし珍しい配役で、梅玉が鳶頭で出ている。まっすぐそうな男が手ぬぐい投げて怒ってでてっちゃった、みたいな印象。
わざわざ手ぬぐいを投げているのがわかる。ここは目立っちゃいけないと思う。惜しいな。
memo:10日。後ろの席から全景を見た。鳶頭を押さえて引っ込めた店の者が戻ってくるときに、めいめい、自分の手ぬぐいで足袋の裏をぬぐって入ってくる。全員やる。ここ初めて気づいた。なるほど、土間から畳に上がるんだもん、やるよね。こまけえな。絵としては割と可笑しい。

そして見あらわし、弁天の名乗りへ。
序幕から見ているので、お客さんはここまでぐっと辛抱してきている。
「しらざあいってきかせやしょう」にかかる「待ってました」の声が、これほど実感をこめて聞こえるのも初めてである。
本当にながかった。待ってました。これをみなきゃあけえられねえ。
それに応えるようにたっぷりと「おれーがーことーだぁー」の見得をする弁天。
ほかが世話なだけに、この部分だけは凝縮したかっこよさになっている。
前に都鳥を見たときに、終わりに近づくにつれ菊五郎がどんどん若い印象になっていくのに驚いたのだが、今回もそうであった。
もっというと、もうばけちゃあいられねえぜ、の後から別人の若さである。
それでいて、無理に若くしたりせりふをしゃべっているという感じでなく、そのへんでインタビューに答える菊五郎を見ているような気分がある。
いつもの型どおりにやっているのだけれど、ゆるさがあって、
プロットを自動でよどみなく流しているようなテンポの速い弁天ではなかった。
南郷の名乗りや、稲瀬川を見ても思ったのだが、せりふの意味するところがわかる。
七五調のせりふのなかに、誰がどういう身の上でどうなっちゃったのかということがわかるように聞こえてくるのである。
ジャーナリストの池上さん(元こどもニュースのお父さん)の著書に、あるアナウンサーが語るニュースを聞いていて一瞬意味の取れなくなった箇所があったので、後で「今、読んでいて意味がわからなくなったところなかった?」と聞いたら、たしかにあった、というエピソードが書かれていた。
話す人が理解していないと、聞く人にも伝わらないというのである。
それを思い出した。今回の配役はそうそうたる顔ぶれである。かつ、序幕から演じているから、「がきのころからてくせがわるく」も「おしゅうのためにきりどりなし」も実感がある。意味がわかってしゃべっているから、観客にも伝わるということではないだろうか。
浜松屋に戻ると、弁天は歌うような台詞回しは控え、自然な抑揚ですすめており、いつもは素っ頓狂だなと思う「そうよなあ」のせりふも、「ああそうだなあ、言われて気づいた」という風情である。「そうよなあ」ってそういう意味だったのかと思う。
また「俺が着てきたから行き丈が合うかどうか」と羽織を弁天に着せ掛ける南郷も、本当に丈が合うかどうかなあ、と心配する感じ。
世話って、追求してゆくとそうなるんかなあ。
歌舞伎座(東京)で、通しの一部としての浜松屋。
なかなか面白いもんを見た。東京ってわざわざ書いたのは、大阪だったらもっとねっとりいくんじゃないかと思ったため。

memo:「なんでわたしを男とは」の前の「えっ」は女の声。その後の二の腕に彫り物、の後は「はぁっ」(がっくり)という息遣いだけ。声は出していない。
あと、南郷の尻に彫り物がない。

転換
お盆で卓球する丁稚。どうかなあ。これ。土日ののりのいいお客だったらのってくれるかな。
前見たときは新体操だったかな。

蔵前

ここは「有り金残らず」とすごむ成田パパのかっこよさが見もの。
しかし、以降なぜか観客大爆笑の場になっている。そんなに笑ってやるなよ。ほんとはしんみりした場なのではないだろうか。
あんまり素っ頓狂な巡り会わせなのでしょうがないのかもしれないが、
今日の團十郎は海老蔵みたいな化粧だぞ、と思ってたら、親子ですー。ときたので(知ってたけど)余計おかしい。
菊五郎は、みんながわらっちゃうから、しょうがなくそういう芝居にしてるのかなあ。
早く済まそうとしてるようだ。おっさんが面目ないって言ってるみたいで17には見えない。絶対。
ここだけ染五郎とか、らぶりんにやらせるといいんじゃないだろか。

稲瀬川

パス。(おい)いや、さっき書いたから。
そろいの小袖で出てくるわけや、捕り手が回ったことが蔵前の場で述べられているので、その辺のつながりがわかる。
赤星(時蔵)が名乗りの最後で手をちょっと(指くらいまで)懐に入れるような型にしていた。
手刀のような形にしてを胸に水平に当てるような型でよくみるが、今回のほうが疲れないし、無駄になよなよしなくてよい。
弁天が、いつもどおり、かこいー。劇評っぽく書くと「安定している」。

10日:イヤホンガイドを聞いてたら、出てくるときひとりひとり下座音楽が違うよと言ってた。違うのは知ってたけど、誰がどれってのがわかって良かった。
が、すぐ忘れた。(おい)

極楽寺大屋根、山門

どんたっぽの立ち回りから早い立ち回りへ総勢22名の捕り手を相手にした弁天がいいです。あの貫禄のある小太郎さんと同じ人とは思えないよ。
この場だけは悲壮な青年に見えるもん。
しかし立ち腹切ったのは早まったとしか言いようがない。
浅葱を着ているってのは死ぬことになってるんだって、昔読んだな。切ないねえ。

最後の最後に出てくる青砥藤綱も安心して見られますね。
最後さらばーで終わるのが歌舞伎らしくて、たまにこういうのもいいよなあ、と思う。

(2008/5/11)


2008/5/10 夜 21列16番

後ろ(最後列)の客が最低最悪。
小学1年生がもう序幕から「帰るー」「かぶきつまんないぃー」「かぶきつまんないかぶきつまんない」
1万円かけて周りに迷惑かけて、まんまと歌舞伎嫌いを1名製造か。ちゃんちゃらおかしい。
自分の娘がこういうものに3時間耐えられるかくらい見当つかんのか。おとうさん。
かくして、みみせん代わりにイヤホンガイドを借りた。例の子供が「しゃべってばっかでうるさぃぃー」って言ってたけど。それは正しい。
ただ舞踊の時は意味がわかるので重宝する。三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい。読めないよ。三升の形をとってしかくばしらと読ませている。)真柴久義が主人公の踊り。
松緑の踊りは前のようなダンスっぽさは消えてきたけど、顔が小さいのでなんとなく身体がながーいように見える。
出てくる全員が奴さんという踊りで、立ち回りっぽくて楽しい。
辰巳、やひろ、大和といったあたりが成長して、安心させてくれる。踊りにからんでいてもきれいだ。次代が全然覚えられないけども。
それにしても松緑の頭は小さい。辰巳ちゃんの頭はでかい。

(2008/5/11)


2008/5/25 夜 5列16番

菊五郎は、小太郎として出てくるところ、2週間前よりすっきりとしていた。このひと月大変だったろうな。また、芝居のジャマにならないところで(って、イヤホンガイドみたい)何度か咳払いをしていた。声はあまり悪くなっていなかったけど。
んまあ、それより團十郎が調子悪そう。なんかセリフをこなしているという感じ。
鳶頭(梅玉)はあいかわらず手ぬぐいを山なりに投げて去っていった。もう手ぬぐいしか印象に残らない。(それ、だめなのでは)
海老蔵。「若旦那はうっちゃっといてくださいよ」と言われてほんとにうっちゃっとく若旦那。立ってるだけかぁ。店は心配じゃないのかぁ。でも、幾重にもお詫びをしましょうから、と頭を下げながらちらっと「悪いのに当たっちゃったなあ」という顔をしてたのは面白かった。これはこれでリアルかも。さすが若旦那17歳。南郷が「あるじを呼べ」と言いたくなる気持ちもわかる。
あとぉ、蔵前。やっぱ場内が笑いに支配される。あれ、弁天と駄右衛門のセリフがよくないんじゃないかなあ。現代人には「めんぼくねえ」って言葉はコミカルに思えてしまうんだろう。懸命にやっている東蔵さんがかわいそうになってくる。

浜松屋の菊五郎で気づいたこと。逸当に「ゆすり騙りのその中でもさだめし名のある者であろうな」と言われ、弁天「それじゃあおめえさん方はわっちらの名を知らねえのか」一同「どこの馬の骨か知らねえわ」弁天はそれを聞き終わらないところで、一瞬顔をぴっと番頭らのほうに向け「えぇっそんなことも知らないの?」という顔をしてみせる。 細かい。#その後で「しらざあ」とくる。
あと、 「言い分あらばなんどきでも」と言われて、ん、とうなずくところで「合点」という顔になっている。これは見ようによっては意味ありげだ。

座っての芝居ではゆっくりで落ち着いており、立っての芝居ではくだけて、セリフはそのままだがいつもよりアドリブっぽい様子になっている。帰り支度をするところもそうだし、坊主持ちなんか、もう友達と遊ぶのが楽しくって仕方ないんだね。 あの年頃ってそうだよな。

極楽寺屋根。梯子の立ち回りの後で、ゆっくりだった下座が一転して異様な速さになるのが今日はよくわかった。筋書きの談話にあった今回の音楽の工夫って、これだろか。これは速い。活動写真のようだ。必死に捕り手をかわしながら追い詰められていく弁天の悲壮。何人もの捕り手を横一線になぎ払って落とし、自分の腹に刃を突き立てる。カツドウのなかでひとり散ってゆく弁天小僧。
芝居ッ気を抑えた浜松屋とあいまって、いつものお祭り芝居に終わらないやるせない印象だ。
全然関係ないのに、「傷だらけの天使」で、あっけなく死んでしまったアキラを背負って歩くオサムを見たときの気分を思い出していた。

(2008/5/27)


3回見たが、芝居の印象はあまり変わらなかった。安定。それにしても今回は平日(9日)に思い切って歌舞伎座に走って大正解だった。ほかの両日はもう土日の観劇はヤダと言いたくなるような、客の行儀悪さ。歌舞伎座なのに。なんかがっかり。女の人が声かけるのもやっぱあんまりそぐわないと思うよ。

あと、9日、たくさんの係員が各通路に立ち「携帯電話の電源は以下略」など口上を述べ徹底させていた。25日はなかった。なぜだろう?

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