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| 忠臣蔵 (1999.12 and 2000.1 の特集) 忠臣蔵というのは、芝居の名前。元禄時代のある事件を題材にとったもので、かければ必ず大当たりというお化けのような芝居でした。時は移り、映画、テレビでも同じ事件が繰り返し繰り返し取り上げられてきました。隠されていた時代や人名が本当の時代、本当の名前になっても、「忠臣蔵」という名だけはそのままに。
関連するよそのサイト:時代とともに〜大佛次郎の魅力(http://village.infoweb.ne.jp/~lunapage/) Luna様のところ。S53年版赤穂浪士(田村正和が堀田隼人のヤツ)のページあり。
赤穂事件赤穂事件、もしくは、元禄事件などと称される事件のあらましは以下のようなもの。 元禄十四(1701)年三月十四日。江戸城松の廊下で、播磨赤穂城主 浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対し斬りつけ、刃傷沙汰となる。 浅野内匠頭はその日のうちに切腹を命じられ、浅野家は断絶。一方、吉良には、おとがめなしとなった。 赤穂城は、無血で明け渡され、浅野の家臣たちは浪人となった。 一年と九ヶ月のち。 元禄十五(1702)年十二月十四日、家老であった大石内蔵助をはじめとする、元浅野家臣たち四十七人(とされている)が、吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち取った。 翌 元禄十六年(1703)年二月四日、四十六名切腹。 大人数での殺傷事件である。噂が噂を呼び、すぐに誰もが知るところになる。 だが、なぜ、松の廊下の刃傷が起こったか、なぜ、内匠頭は切腹させられたか、なぜ大石は遊びほうけ、2年近くもたってから討ち入りしたのか、目的は何。なぜ四十七が四十六に。生き証人たちの証言、作られた芝居。虚実入り乱れて、真実は霧の中。
仇討ち、義士事件の直後(二週間後という)、この事件を題材にとった芝居が曾我兄弟の仇討ちになぞらえて上演されたそうです。そのときすでに、これは仇討ちである、ととらえた人がいたということが分かります。 直木三十五の「仇討ちについて」という文で引用されている仇討ちの番付2つ(いつのものか分かりませんが)にも「大関 赤穂義士仇討」「大関 忠臣蔵仇討」としてあげられています。(ちなみに、綱は、「山崎仇討」。) 「義士」です。ながらく「義」であるサムライである、という見方がされていたわけです。
仮名手本忠臣蔵事件の後、十年ほどを経たころから次々に、四十七人を四十七文字になぞらえ「いろは」を題名に織り込んだもの、大石を大星としたもの、時代を太平記に映したもの、「忠臣」「蔵」(内蔵助のイメージ)、と、すでにキーワードをおりこんだ芝居、浄瑠璃がいくつも作られており、そのうち特に近松門左衛門作品から多くを取り込んで、寛延元(1749)年「仮名手本忠臣蔵」(作:竹田出雲、並木千柳、三好松洛)という人形浄瑠璃が作られます。すぐに歌舞伎が作られました。 50年前の出来事。これを書いてる今現在から見れば、戦後の復興期くらいに。私が子供の頃なら、昭和初期あたりにあたるでしょうか。父の時代、おじいさんの時代にあった、有名な事件で、何回も何回もテレビ化されている話。薄々は知ってる。だけど、こんどのは、とりわけおもしろい。そんな感じだったんでしょうか。 とにかく打てば大当たりだったと言われ、現在に至るまで、頻繁に上演されています。長い長い芝居で(ふつう、すべては上演しませんが)昼夜の通しでの上演となったり、月をまたがったりして上演されているようです。 この作品は、赤穂事件を元にしながら、時代をすりかえ、人物の名前を変え、また、モデルとなった人物同士を巧みに入れ替えながら、それぞれの人物の情と「運命のいたずら」をドラマチックに描き、芝居独自の筋書きを作り上げています。 高師直が塩冶判官の妻を口説こうとしたのが事件の発端だったり、斬りつける塩冶を抱き留めた加古川、の娘と大星の息子である力弥が恋仲だったり、お軽との逢瀬のために大事に遅れ、逃亡した早野勘平が、元の武士として仇討ちに加盟する金を作るために、妻のお軽が身売りしようとし、当の勘平は義父を殺したと勘違いして自刃。それを知らずに売られていったお軽は、そこで遊んでいた大星の手紙から、討ち入りの計画を知ってしまい、知られた大星はお軽を身請けしてから殺そうと…、すでに書いててわけわからんくなってきましたが、話の綾が入り乱れ、絡みに絡んで、これが芝居ならずして何でしょう、という。 しかし、松の廊下、塩冶判官の切腹、遺志をくみ取った大星の討ち入り、と材料はそろっており、それぞれの役のモデルが誰であるかも、役名から容易に知れます。 したがって、逆に、吉良の悪人ぶり、お軽と勘平の悲劇、だんだらの羽織、などなどのイメージが、事実のように広く流布していったのでしょう。 今では「忠臣蔵」という言葉自体が「赤穂事件という題材」の代名詞として使用されています。
義士から浪士へ赤穂の家臣たちを「浪士」と呼んだ最初の作品と言われているのが、新国劇の舞台になった「赤穂浪士」(昭和2 大佛次郎)です。「義」という主観的な要素を取り去って客観的に見ると、赤穂の元家臣たちは国を失った「浪士」というわけです。堀田隼人という、赤穂の外側にいるニヒルな剣士の目から見た物語。何度か映画化もされていますが、テレビでは、NHK大河ドラマの「赤穂浪士」(昭和39, 1964)。最高視聴率55.9%という(ニールセン調べ。ちなみにこのころの一位は紅白歌合戦で、80.7%という数字。今とは少々事情が違います。)伝説的な数字をはじきだした作品があります。 いつも文献をたぐっていて不思議に思うのですが、文学の世界ではすでに伝説や講談からの脱却、あたらしく、人間としての歴史的人物の解釈といったものが沢山出ていても、それがテレビで放映されると、人々はまた、新しい解釈だ、今までの型をやぶった、と思うらしい。そこには相当(20年とか)のタイムラグがあるのです。それって、結局、小説で新しい解釈を出しても世間には浸透してない、ってことかしらねえ。
テレビの忠臣蔵その前に映画。「時代小説のヒーローたち展」に映画監督の高瀬昌弘氏が寄せている文章によると、昭和36年「赤穂浪士」(東映)当時の記録に、それまでに赤穂事件に題材をとった作品が70作あることが書かれているそうです。 しかし、大人数と沢山のセットを必要とする忠臣蔵。大がかりな時代劇映画を撮ること自体が少なくなったそれ以降では、作品もかぞえるほどになります。 舞台は、テレビへ。時代劇の場合、ふつうのジャンルですと、昭和30から40年代にわーーっと沢山作られていたものが、年を追うにつれどんどん少なくなってゆきます。赤穂事件関連の作品も連続作品はその様相を呈しています。しかし、単発を含めると、2年に一度くらいはどこかで忠臣蔵をやっている勘定になります。 史実そのものに謎が多く、政治から、下級武士、他藩の人々にいたるまで、実に多くの人々が、長い長いドラマを繰り広げ、最後に討ち入りという大イベントがあるという、作る側にとっても腕のふるい甲斐がある題材。今回の討ち入りはどう描かれるんだろう。事件の発端は、女、経済戦争、遺恨、それとも…。そして誰がどの役をやるのかな、という、見る側にとっても楽しさの詰まった題材。 忠臣蔵は、テレビになって、二百年受け継がれた決まりのストーリー・セリフを楽しむという以上の魅力を得たのかもしれません。
おまけ忠臣蔵というのは、討ち入りが12月ということがよく知られています。 で、12月に最終回を迎える率がすごく高い。 やー、季節感のある作品です。
データ(リンクのあるヤツは、放映データのコーナーへ飛びます) 放映データ:赤穂浪士(大河ドラマ) 放映データ:元禄太平記(大河ドラマ)
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